第5話 二番目の最善手
「おい、デカブツ。そろそろ降ろせ」
農業科学科が管理する巨大なビニールハウスの裏手で、視界がぐらりと揺れた。
「はいはい」
ケネスは俺を荷物のように地面へ降ろすと、自分もどかっと腰を下ろした。あたりには、腐葉土と化学肥料の混じった独特の匂いが漂っている。
「ねむから連絡あったぞ。『ハルが先生に反抗したら、物理的に引き離せ』って」
白い歯を見せて笑い、指で摘んだスマートフォンをちらつかせる。
「……余計なことしやがって」
「案の定、イライラしてるハルを発見。あいつの読み通りだったな」
「俺は行きたくないって言ったんだ。でも、あいつが『行け』って言うから……」
制服の襟を正す。風に煽られたビニールが、ばたばたと乾いた音を立てた。
「一番やりたいことでもねえのに、漁師一本に決めようとしてるバカを見たら、強制連行もしたくなるだろ」
「は? 漁師はやりたいよ。海も魚も好きだ。……お前も、大学へ行ったほうがいいと思ってるのか?」
俺が睨むと、ケネスは長い手足を投げ出したまま首を振った。
「いいや? 別に。好きにやれよ」
「じゃあ、止めんなよ」
「ねむが言ったんだもん。俺は実行部隊。それに、お前が漁師になって地元へ残るなら、俺には最高だし」
あまりに軽い答えに拍子抜けする。こいつはいつも、何も考えてない顔で核心だけを突く。
「……そうだろ。だから、これでいい。世の中、やりたいことができない奴なんて山ほどいる。二番目にやりたいことができるなら、それだけで最善手だ」
そう言葉にしてしまえば、間違っていない気がした。
「お前がそう決めたなら、いいんじゃね?」
ケネスは頷き、欠伸を噛み殺した。
「で、お前はどうすんだよ」
「俺はバスケをやる。いくつかの大学が見に来てるし、実業団のスカウトも次の大会に来るらしい。農業も畜産もやる。ラップも続けるし、格闘技もいいな」
太い指を一本ずつ折りながら、夢を数えていく。
「バスケか。お前ならプロくらい余裕だろ」
「そーだね。余裕。で、全部やる。お前と違って」
「……全部?」
「そのまんまだよ。俺はなんでもできるからな。身体もデカいし、体力もある。俺の行く道は全部、イージーモードで確定してる。羨ましいだろ?」
太陽を背にした巨大な影が、俺をすっぽり覆った。その言葉に、迷いは微塵もなかった。
こいつには、何かを選ぶために何かを捨てるという発想そのものがないらしい。
俺には、それがひどく眩しかった。
「俺はお前のこと応援してるぞ。あの港だって、お前が来たら喜ぶ!」
「そうだろうな」
「港のジージたちも、もう引退だろ。お前がいれば当分は大丈夫だな!」
「おう。大丈夫だ」
会話が途切れ、ビニールの羽ばたく音だけが響いた。
ケネスは膝に手をつき、「よいしょ」と立ち上がる。
「俺、二回目の弁当食ってくる。ねむ、まだ公園にいるかな?」
「さあな。國崎がいるかもよ」
「へー。お前も行こうぜ」
「……いや。俺はしばらくここにいる」
「あっそ。じゃーなー」
それ以上追及せず、大きな手を振って歩き出す。
その淡白さが、今はありがたい。
なのに、今だけはもう少し隣にいてほしかった。
ねむとケネスだけが、俺という不安定な船を岸へ繋いでくれている。
来年の今頃、二人はもう、この街の外を見ている。ねむは大学へ。ケネスはプロか……
俺だけが、この街に残る。
巨大な背中が見えなくなると、急にビニールの音だけが大きくなった。
大丈夫かよ。俺。




