第4話 ここを選ぶ
校舎へ戻る渡り廊下を歩きながら、俺は少し昔のことを思い出していた。
窓から差す午後の光は眩しいのに、記憶の景色は、現像に失敗した写真のように曇っている。
中学二年生の頃。ねむが支援学校から交流授業で、俺たちのクラスへやってきた時のこと。
あの頃のねむは、今よりずっと小さく見えた。小学生が紛れ込んだような体で背中を丸め、視線はいつも床に落ちていた。手話も小さく、指先がかすかに震えていた。
けれど、体調が安定し、俺たちの学校へ定期的に通うようになると、水を吸い上げる植物のように変わっていった。
最初は、小学六年生レベルのドリルからだった。
俺は毎日、放課後の図書室で隣に座った。ねむのノートは鉛筆の黒鉛で汚れ、消しゴムのカスで埋もれた。それでも一年半、雨の日も風の日も、ねむはペンを握り続けた。
そして、この学校の入試まで辿り着いた。
難関校ではない。それでも、小六の内容から始めたねむが、自力で捥ぎ取った高校だった。
合格発表の日、掲示板に自分の番号を見つけた笑顔を、今でも鮮明に覚えている。
できなかったことを、一つずつ自分のものにしていく。その背中を見て、俺は初めて他人を心の底から尊敬した。
『もしかして私、大学なんか行けちゃったりして!』
あいつなら、本当にやるだろう。また歯を食いしばって、次の壁まで越えてしまう。
考え事をしているうちに、職員室の重い引き戸の前へ着いていた。
歩く勢いのままノックし、扉を開ける。
「失礼します」
コーヒーと印刷インクの匂いが混じる室内を進み、担任の舟橋先生のデスク前に立った。視線は合わせず、机上に積まれた書類を睨む。
「……なんだ。そんなにイライラしてどうした、芦名」
先生が呆れたように眼鏡を直した。
「飯を急いで食ってきたんです。先生が呼んでるって聞いたんで」
「あー……例の進路希望調査だ。お前、もう一度考え直さないか?」
「大学には行きません」
先生が言い終わる前に断言する。
「卒業したら漁師になります。資格の勉強も進めたいんで、来年の選択科目は実習中心で組みます」
「何を焦っているんだ。人生は長いぞ?」
「焦っていません。事実を述べているだけです」
一つ息を吐き、ようやく先生の目を見た。
「麓の港にいる船主は、祖父以外、全員七十を超えています。あと二年待てば、船そのものがなくなるかもしれない。祖父一人に港を守らせるなんて、物理的に無茶です」
「そう簡単な話じゃないぞ」
「分かっています。海洋科学科二十人のうち、地元で漁業を継ぐつもりなのは、今のところ俺と國崎だけです。俺が船を持って、新しい仕組みで人を雇う。そうしなきゃ、あの港は死ぬんです」
舟橋先生は顔をしかめた。
「お前の言いたいことは分かる。だが……勿体無いんだよ」
「何がですか」
「お前なら、どこへだっていける」
「どこへでもいけるからこそ、俺はここを選んで漁師になりたいんです」
「……それは、昔からの夢なのか?」
俺は口を閉ざした。喉の奥に、小さな棘が引っかかる。
夢じゃない。これは、俺が自分で下した選択だ。
本当は、数学者になりたかった。
この高校へ入る前から、ずっと。
数の世界にはノイズがない。美しい法則と絶対的な正解がある。俺はそこに一生いたかった。
それでも、この街を残すことを選んだ。
「……やっぱり、そうなんだな。お前、他にやりたいことがあったんじゃないのか?」
喉の奥が熱くなる。
「ありません!俺は漁師になりたいって言ってるじゃないですか!!」
その瞬間、日食が起きたように視界が暗くなった。
黒檀のような太い腕が、俺の首へ大蛇のように絡みつく。鼻をくすぐるのは、甘ったるいココナッツの香水。
「はるぅー。何キレてんだよぉ~。舟橋先生が可哀想じゃねぇかよぉ~」
頭上から、その図体に似合わない間延びした声が降ってくる。
農業科学科のケネス。学科は違うが、クラスは同じ。天井に届くんじゃないかと思うくらいの巨体を持つ、俺の幼馴染だ。
「なんだテメェ! 離せ、気持ち悪い!」
腕は、いくら身をよじってもびくともしない。
「先生ぇ、ハルくん借りますねー? 僕が愛ある指導でぶっ飛ばしておきますんで! ハル、そんなイライラしてたらダメだぞぉ。めっ!」
「おま、ふざけ……っ!」
野太い笑い声とともに、俺の身体が宙へ浮いた。
米俵のように肩へ担がれ、視界が反転する。遠ざかる舟橋先生が、小さく手を振っていた。
俺は諦めて力を抜き、巨大な背中に運ばれていった。




