第3話 天使のように笑って
昼休みを告げるチャイムから逃げるように、俺はいつもの公園へ向かった。
学校の敷地を少し外れたところにある、人気の少ない場所だ。
ここへ来るのは、一人か二人、あるいは三人。顔ぶれは決まっている。
ベンチに腰を下ろし、末の妹が持たせた包みを解いた。
毎日渡されるこの弁当には、ラブコメ的な甘い要素など微塵もない。
蓋を開けると、春の野山と富山湾が詰まっていた。
祖父が釣ったフクラギを使ったブリ大根風、タラの芽の天ぷら、筍の混ぜご飯。端には、彩りを完成させるためだけのナデシコまで添えられている。
これより要領のいい人間がいるのかと思うと、俺は妹に本気で気圧される。
箸を伸ばそうとした瞬間、右肩に軽い重みが触れた。
トントントン。
三回のリズム。
振り返ると、春風にボブヘアーを揺らした少女が立っていた。
俺と目が合うと、花が咲くように笑い、音もなく向かいのベンチへ腰を下ろす。
一拍も置かず、細い指先が宙を舞った。
弁当箱を指し、左手の甲がふくらんで山になった。動かない。
その手前で、右手の人差し指が二度はじけ上がる。何もない空間の二か所から、芽が出た。
見えない糸で幾何学模様――魔法陣でも描くような動きだった。
その間ずっと、彼女の眉は上がったままだ。指が止まっても、下りない。
「そう。今日は山菜だらけだ」
俺が答えると、ようやく眉が下りた。
次は短い。右の掌をくるりと上へ返し、俺と弁当箱のあいだで止める。また眉が上がり、顎がわずかに引かれた。
「いいや? 山菜は春にしか食えねぇし。好きだよ。毎日これでもいい」
彼女は空気を漏らすように笑い、自分の弁当箱を開いた。
小さく切り揃えられたサンドイッチを一つ摘まみ、口へ運ぶ。
頬をハムスターのように膨らませ、慎重に咀嚼する。一口を飲み込むのに、一分かそれ以上。
左手が塞がっているあいだ、彼女は右手だけで喋った。両手で組むはずの単語を、片手で崩して放り投げてくる。それでも意味は落ちない。
表情と、その五本の指だけは、食事とは別の生き物のように会話を続けていた。
「これ? 多分、庭のタラの木だ。お前の家のそばにもあるだろ?」
傍から見れば、俺が虚空に独り言を呟いているように見えるかもしれない。
しかも今日は、やけに元気がいい。
名前は香椎ねむ。
生活福祉科の二年生で、中学の頃から、ほとんど毎日を一緒に過ごしている。
生まれつき声は出せない。
けれど、話せないわけではない。
【聞いてる!? ハル!】
不意に、ねむの右手が荒ぶった。
眉間には深い皺。口は「んっ」の形に結ばれている。
「あっ、ごめん。急に動きをでっかくするなよ」
【ハルの視線が変な方向だったからじゃん! それよりさ、私、昨日のテスト結構頑張ったんだよ!? このままいけば、期末は五十位以内を狙えるかも!】
胸元にあった手が、肩の上まで弾け飛ぶ。顔の横で指が花火のように開き、笑顔が炸裂した。
「ふーん。それは……マジですげえな」
【でしょー。もしかして私、大学なんか行けちゃったりして!】
ねむは腰に手を当て、得意げに肩を揺らした。
楽しげに踊る指先を見ていると、人間には初めから声など必要なかったのではと錯覚する。
「で? もう一人のデカいのは? 最近見ないけど」
ねむは左の親指だけを、くいっと校舎へ向けた。
【ケンちゃんは体育館。部活のOBと話してたよ】
「そっか」
穏やかな昼下がりを、遠慮のない足音が破った。
「おーい、ハルー。お、香椎さんも!」
ビニール袋を景気よく鳴らしながら、國崎が近づいてくる。
「おー」
俺が一瞥しただけなのに対し、ねむはパッと笑って手を振った。
「いいなあ、お前。香椎さんと話せて」
「別に誰でも話せるだろ。ねむは音声アプリを持ってるし、お前の声も聞こえてる」
「そういうことじゃねえよ。スマホ挟まねえで話せたほうが、楽しいだろ?」
國崎は俺の返事も待たず、ベンチの空いた場所へ腰を下ろした。
「なら、手話を覚えればいい」
「馬鹿。俺の脳ミソに、そんなキャパはねえよ」
國崎がへらへらと笑いながら、俺の肩へ手をかける。
トントン。
ねむが人差し指でテーブルを叩いた。
【國崎くんも一緒に食べる? ……って通訳して】
「は? スマホ使えよ」
ねむは眉を下げ、画面を俺に見せた。
【なんかクルクルしてるの】
画面では、読み込み中の円が虚しく回り続けている。
「はあ……。國崎、『一緒に食べよう』ってさ」
「えっ、いいの? 喜んで!」
イライラする。こんな些細なノイズに乱されていては、社会に出ていけない。
國崎はさっそく惣菜パンの袋を開き、勢いよく口へ運んだ。
「で? わざわざ来たってことは、用があるんだろ」
國崎は口の中のものを飲み込み、思い出したように言った。
「あー、そうそう。先生が呼んでたぞ。『来年の進路調査票、まだ出してないだろ』
って」
「行かねえよ。だるい。このまま爺ちゃんの漁業を継ぐって、何度も言ってる」
「まだそんなこと言ってんの? 絶対ねえだろ、その選択」
「なんでテメェが決めんだよ」
「こないだの模試、とんでもねえ結果だったんだろ? お前みたいな奴がなんでここにいるのか、この学校全員が疑問に思ってるって」
「さっきも言った。漁師を継ぐ」
「そんなの後からでもできるだろ。とりあえず大学行けよ」
「大学は何をするところなんだよ」
「やりたいことを探したり、専門分野を勉強したりするところ……じゃねえの?」
俺は箸を置いた。
「なら、もう決まってる。俺は漁師になって、爺さんの仕事を継ぐ」
「それだけ?」
「北の廃漁港を買い取って再建する。もっと効率のいい方法で、この街の漁業を活性化させる。事業計画も作ってある」
頭の中には、寂れた港が生まれ変わる青写真が、はっきりと見えていた。
「……頑固だなあ、お前」
國崎は理解できないという顔で首を振る。声にしているのに、意味だけが届かない。
タンタンタンタンッ!
さっきまでの控えめな合図ではない。空気を震わせるような、強い打撃音。
顔を上げると、ねむが俺を睨んでいた。
【ハル。行け。先生のところに】
「はあ?」
【「はあ?」じゃない。行け】
指先は鋭く、動きは直線的で、一切の無駄がない。
【いけ】
たった二文字が、命令として目に焼きつく。
「……わかったよ。食い終わったら行く」
ねむが本気で目を合わせたとき、俺に拒否権はない。
ねむは天使のように笑い、何事もなかったようにサンドイッチを頬張った。




