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こえあらず ほうに恋ありけり  作者: ぶりかま
一章 モラトリアムの海
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第2話 緩やかに死んでいく街で

 桜の舞う春、俺は彼女に出会った。

 あれから三年。

 いつもおどおどと周囲を窺っている、気弱で眠たそうな目をした女の子。

 少なくとも、何も知らない人間にはそう見える。

 彼女が貸してくるのは、「異世界転生」や「悪役令嬢」、「ざまぁ系」といった苛烈な小説ばかりだった。


 ゲームをすれば火属性の魔法で敵を焼き払い、パーティーには必ず闇属性のキャラを入れる。

 最初は理解できなかった謎のこだわりも、今では俺の日常に根を張っていた。

 並んで学校へ行き、一緒に帰る。

 けれど、その計算式のいらない関係は、いつの間にか当たり前になっていた。

 ――それでも、彼女の声を聞いた者は、この世に一人もいない。

 彼女の抱える静寂はどこかこの街に似ていた。白兎の群れのような波が、海原を跳ねている。


 その向こうには、冠雪を戴いた白い峰々が、青空の下に連なっていた。

 海と山に囲まれた、美しい街。

 だが、その景色に背を向ければ、潮風に晒された空き家がぽつぽつと並んでいる。

 人の気配は、引き潮のように失われつつあった。

 よそ者だった俺を受け入れ、生かしてくれたこの街が、緩やかに死んでいく。

 いつか家族や友人が帰ってきたとき、変わらず「おかえり」と言える場所を残したい。

 それが、俺がここにいる理由だった。


「ほら、お前ら、手ェ動かせよ。終わんねぇぞ」


 先生の気の抜けた声が、海風にさらわれていく。

 場所は、港の片隅にあるコンクリート舗装の船揚場。

 普段は漁船を陸へ引き上げ、整備するための広大なスペースが、今日の午前の教室。

 潮風と錆びた鉄、それから乾いたオイルの匂い。

 カチ、カチ、とプラスチック製の網針がぶつかる音だけが響いている。

 海洋科学科の生徒二十人は、思い思いの場所に腰を下ろし、黒い漁網を補修していた。

 遠くから見れば、灰色のコンクリートの上に、巨大な苔でも生えているように見えるかもしれない。


「なぁ、ハル。試験どうだった?」


 同級生の國崎が、手元を見たまま話しかけてくる。

 網針が一定のリズムで走り、その指先だけは、乾いた精密機械のように正確だ。


「筆記試験? さぁな。いつも通りだろ」


 國崎とは反対に、俺の手元はぎこちない。穴の縁を拾い直すたび、網目がわずかに歪む。

 強く締めれば糸が食い込み、緩めれば頼りなく崩れる。

 結び目をほどいてやり直すたび、指先がじりじりと熱を帯びていった。


「まあ、そうだよな。お前に聞いた俺が間違ってたよ」


 國崎は呆れたように息を吐いた。


「……つーか、なんでお前がここにいるんだよ。海洋科学科なんて意味わかんねぇ」

「その質問こそ意味不明だ」


 俺は手を止めずに答える。


「漁業を学ぶためだ。ここなら一次産業を一から学べる。農業も、林業も、畜産も。お前だって、そのために来たんだろ」


「はぁ? 俺は定員割れだったから滑り込んだだけ。志なんて重てぇもん、持ってねーよ」


 これほど恵まれた環境があるのに、地域の根幹を担う学科が毎年定員割れを起こしている。

 俺には、どうしても計算が合わなかった。


「……なら、運がよかったんだな」

「毎年定員割れしてる場所に入るのが、なんで『運がいい』になるんだよ」


 國崎は補修を終えると、余った糸を短く切った。

 結び目を指で撫で、引っかかりがないことを確かめる。

 それから大きく息を吐き、そのままコンクリートの上へ仰向けになった。

 俺は國崎を見なかった。

 作業に飽きたら寝るという、あまりにも動物的な反射へ割く思考の余白がなかった。

 春の陽射しを浴びながら、網針に糸を巻き、網目にゲージを当てる。

 糸を通して、締める。

 歪みに気づいて、ほどく。

 もう一度、糸を通す。

 穴は小さい。

 それなのに、その向こうから海がこちらを覗いているようで、落ち着かなかった。

 手を止めれば、何か決定的なものに負けてしまう。そんな気がして俺はまた結び目を締めた。


「ハル」


 寝転んだまま、國崎が俺の手元を見る。


「そこ、テンション強すぎ。先生に言われるぞ」

「……そうか。ごめん。やり直す」

「いや、謝れって意味じゃねぇよ」


 國崎は面倒そうに頭を掻いた。


「お前、しっかりやりすぎなんだよ。もっと適当にやれ。そこだけガチガチに固めたって、周りの網目が緩いんだから、全体に合わせろよ」


 全体に合わせろ。

 周囲より小さく、固く歪んだ網目を見つめる。

 俺はいつも、こうなる。


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