第39話 報酬はその笑顔
「いらっしゃいませー! ご注文はどうされますか?」
店員の明るい声が、フードコート特有のざわめきを切り裂いて響く。
俺が頭上のメニュー表に視線を戻そうとした刹那、視界の端で白い指先が閃いた。
【たこ焼きッ! 絶対ッ! 頼んで! 焼きそばじゃないからね!】
ねむの主張は激しい。
「わかった、わかったから」
喉の奥でくつくつと笑い、店員に向き直った。
「たこ焼きを一つください」
【あと、ホタルイカのフライ。それとチュロスも】
「はいはい。わかったよ」
ねむの手話を翻訳して伝える間、若い女性店員は、目を丸くしてねむの手元を見つめていた。
それは店員だけではない。俺たちの背後に並ぶ客や、近くのテーブルで食事をする人々。その多くの視線が、音のない言葉を紡ぐ美しい少女へと吸い寄せられていた。
慣れた光景だ。
だが、その視線の「温度」は、俺たちの住む集落のそれとは明らかに異なっていた。
地元では、ねむは既に「公認のアイドル」だ。手話を使う不思議な少女。会えればラッキー、話せればもっとハッピー。そんな温かな好奇心と、守るべき対象としての親愛がそこにはある。
けれど、ここは違う。ここは、俺たちを知らない他人だらけの街だ。
「ママ、あれなぁに? お手てでなにしてるの?」
「コラッ。指差さない。静かにしなさい」
幼い子供の無邪気な指差しと、それを慌てて引き下ろす母親のバツの悪そうな顔。そこに含まれるのは、異質なものを見る警戒心と、腫れ物に触れるような遠慮。「障害」というレッテルを貼られる瞬間特有の、あの冷たく乾いた空気が、ねむの周囲に澱み始める。
……だが。
香椎ねむという少女は、そんな柔な精神では生きていない。
彼女は周囲の視線に気づくと、萎縮するどころか、スッと背筋を伸ばした。顎を少し上げ、舞台女優のように胸を張る。
そして、スイッチが入る。
彼女の両腕が、先ほどよりも大きく、優雅な弧を描き始めた。
指先の一本一本まで神経を行き渡らせ、緩急をつけて空気を弾く。大きく目を見開き、口元を緩め、表情筋の全てを使って感情を放射する。
それはもはや、単なる伝達手段ではない。指先によるダンスだ。あるいは、音のないオペラ。
寄せては返す波のように激しく、けれどその中心にある彼女は、驚くほど静かだった。
澱んでいた空気が、一変した。
「なんか……綺麗だね。手話だよね、あれ」
「初めて見た……」
「可愛いね、あの子。魔法使いみたい」
さざ波のように、感嘆の声が漏れ聞こえてくる。
ねむは最後に、一番とびきりの笑顔を作って、店員に向けて指を動かした。
【私、喋れないだけなんです。――店員さん、あとソフトクリームもコーンでお願いします】
俺は彼女の意志をそのまま声に乗せ、通訳する。俺の声色にも、自然と誇らしさが滲んでいたかもしれない。
注文を終えたねむは、ふんっ、と得意げに胸を反らし、俺を見上げた。
どうだ、と言わんばかりのドヤ顔だ。もう、周囲の視線に怯むようなねむじゃない。
そんなねむを一番近くで見ていられることが、ただ嬉しかった。
注文を終えてしばらくすると――
「四十六番でお待ちのお客様ー!」
渡されたブザーと引き換えに、トレーいっぱいの料理を受け取る。俺たちは空いている席へと滑り込んだ。
「ねむはすごいね」
素直に称賛すると、彼女は長い髪をファサッとかき上げ、ニカっと笑った。
【まぁねッ! 慣れたもんよぉー!!】
「はは。……で? どうする? このソフトクリーム」
俺はトレーの端で既に汗をかき始めている、純白の塔を指差した。
【何が?】
「熱々のたこ焼きと、揚げたてのホタルイカのフライ、出来立てのチュロス、溶けやすいソフトクリームを同時に頼むやつ。普通単品で頼むだろ」
瞬間。ねむの表情が「ああっ!」と凍りついた。
さっきまでのマエストロの威厳はどこへやら、一瞬でポンコツな食いしん坊へと戻る。
【ど、どおしよ。なんで言わなかったッ!】
「なんとなく。……まあ、一緒に食べればなんとかなるだろ」
俺が何気なく提案すると、ねむの動きがピタリと止まった。
【……ソフトクリームを?】
「うん。溶ける前に。なんで? 俺にはくれないの?」
俺が小首を傾げて尋ねると、ねむの視線がソフトクリームと俺の唇を何度も往復し始めた。
そして、さっきまであんなに流暢だった指先が、錆びついたロボットのようにギギギ……とぎこちなく動く。
【……あ、あげる、よ……】
なぜ、そこで手がカクつく?
俺たちは顔を見合わせ、溶けかけのソフトクリームへと手を伸ばした。
席に着き、目前に並んだ茶色と白のコントラストを見下ろし、俺は致命的な欠落に気づいた。
ソフトクリーム。
既に頂上から緩やかに融解を始めて、コーンに垂れ始めている。
……スプーンがない。
「ねむ、ちょっと待ってて。スプーン貰ってくる」
俺が腰を浮かせかけた、その時だ。向かいの席から、空気が凍りつくような気配が漂った。
目は吊り上がり、口元は「はぁ!?」と音のない絶叫の形に歪んでいた。どこぞのレディース総長も裸足で逃げ出すような、凄味のあるガン飛ばしだ。
「……しょうがねぇだろ。貰うの忘れたんだから。急いで持ってくる。そんなすぐに溶けねぇよ!」
俺が必死に弁明しても、彼女の不機嫌ゲージは下がらない。
ねむは無言のまま、トレーの上の長いチュロスを両手で掴んだ。
そして、俺の目をジッと見据えたまま――。
ボキッ!!
乾いた破砕音が、俺を縮み上がらせた。
彼女はチュロスを、まるで憎き仇の首でもへし折るように真っ二つにしたのだ。
「お、おい……待ってろって。すぐ戻るから!」
俺は背中に突き刺さる殺気から逃げるように、給水機横のカトラリーコーナーへと走った。
なぜ怒る? 合理的判断だろ?
それとも「私を置いていくな」という寂しさの裏返しなのか?
いや、あのチュロスの折り方は、単なる寂しさで説明がつく破壊じゃなかったぞ……。
プラスチックのスプーンをひっ掴み、俺は競歩選手並みの速さで席へ戻った。
「悪りぃ、お待たせいたしまし……た……」
言葉が尻すぼみに消える。
そこには、ホタルイカのフライを頬張り、ムシャムシャと咀嚼するねむの姿があった。咀嚼音に合わせて、こめかみがピキピキと動いている。まだ怒っている。
……あれ?
トレーの上を見る。
四匹はいたはずのホタルイカの姿が、跡形もなく消滅している。俺が席を外していたのは、僅か数十秒だぞ? こいつ、俺がいない間にマッハで食いやがったのか?
……ちゃんと嚥下したのか?
「ご、ごめんな? 早く気づくべきだったよな……スプーン……」
俺は恐る恐る、贖罪の品を差し出した。
ねむはそれをひったくるように奪い取ると、次はたこ焼きに魔の手を伸ばした。
熱々の球体を口に放り込み、ハフハフと熱気を逃がしながら咀嚼する。そして間髪入れずに、奪ったスプーンでソフトクリームの淵を削り取り、口内へ追撃させた。
熱と冷の交互摂取。永久機関のごとき食欲だ。
「な、なぁ。……俺の分は?」
俺がおずおずと尋ねると、ねむの手が止まった。
彼女は口元のソースをペロリと舐め取り、俺をじろりと睨んだまま、くい、くい、と手招きをした。
「え?」
俺はテーブル越しに身を乗り出し、内緒話でも聞くように耳を近づける。だが、ねむは首を横に振った。
【違う。口を開けて】
冷徹なサイン。
「俺が!?」
【そうだ。開けろ。ハル以外に誰が開けるんだ。あーん、だ】
さっきまでの、周囲を魅了した魔法のような手話はどこへ行った。今の彼女の指先にあるのは、絶対的な「命令」のみだ。
俺は狼狽えて周囲を見渡した。フードコートの喧騒の中、あちこちでカップルが愛を囁き合っている。
(え? あーん? この前の晩飯の逆バージョンか? いや、待て。公衆の面前で? 俺が? される側? どんな顔で待機すれば正解なんだ!?)
【早く】
ねむの目が据わっている。これ以上待たせれば、俺の指がチュロスの二の舞になるかもしれない。俺は覚悟を決め、羞恥心から視線を明後日の方向に逸らしつつ、小さく口を開けた。
ひんやりとした甘いソフトクリーム。俺の脳は「冷たさ」を受け入れる準備を整えていた。
だが。
口内に放り込まれたのは、カリッとした表面と、ドロリとした灼熱のマグマだった。
「んぐッ!? ……あ、あちッーーーッ!!」
予想外の熱量。揚げたてのたこ焼きだ。
俺は手で口を覆い、ハフハフと熱気を吐き出しながら悶絶した。脳内の温度センサーがエラーを吐き出し、涙目が俺の世界を滲ませる。
「あひゃッ! あひッー! あひゃッ!」
そんな俺の無様な姿を見て、ねむの表情が一変した。
先ほどまでの鬼面が嘘のように、満面の笑みへと変わる。彼女は楽しそうに肩を震わせ、スプーンでソフトクリームを掬いながら、優雅に手話を紡いだ。
【罰だ】
ふふっ、と声にならない笑い声を漏らし、満足げにクリームを舐める。その顔は、悪戯に成功した子供のようでもあり、サディスティックな女王のようでもあった。
「なんか……ハフッ! ハフ……ふいまへんへした……」
俺が涙目で謝罪すると、ねむは慈悲深く頷いた。
【よろしい】
そんな攻防を経て、ようやく俺たちのランチタイムは終了した。
流石に、たこ焼きの味はしなかった。緊張と熱さと羞恥心で、味覚が麻痺していたからだ。ソフトクリームに至っては、その大半があの悪魔的な少女の胃袋へと消えた。
トレーを片付けながら、俺は横目でねむを見た。彼女はご機嫌だ。
チュロスをへし折っていた時の殺気は消え失せ、今は満足そうに唇の端を指で拭っている。
……まぁ。笑ってるから、いいか。
あんな顔をさせられたのなら、火傷の一つや二つ、安いもんだ。
「行くか。水族館」
俺が声をかけると、ねむは「うんッ!」と大きく頷き、弾むような足取りで歩き出した。
デートってやつは、難解だ。
今のところ俺の選択は全てエラーを吐いている気がする。だが、あの笑顔が「報酬」だとするなら。俺の学習プロセスは、あながち間違ってはいないのかもしれない。




