第38話 強化学習、多腕バンディット
数分もしないうちに潮騒が大きくなり、視界が開けた。色褪せた観覧車と、その隣に建つ魚津水族館。日本最古の歴史を持つ水族館らしく、どこか昭和の面影を残している。
ゴールデンウィーク初日。敷地内は家族連れや観光客で賑わっていた。
だが、正門に近づくにつれ、俺の足取りは重くなる。……なんだ、この空間は。
「待て待て……」
俺の動体視力が、異常な数値を弾き出す。
視界に入る男女の群れ。その密度と距離感が、俺の知る「観光」の定義を逸脱していた。
ベージュのトレンチコートで全身を揃えた、完全ペアルックの男女。
一つのソフトクリームを交互に舐め合い、「冷たーい!」「甘ーい!」と嬌声を上げる二人組。人目も憚らず腰に手を回し、互いの体温を確かめ合うようにゼロ距離で歩くカップルたち。
ここは魚の生態を学ぶための学術施設ではなかったのか?
いや、今の彼らにとって魚など背景(書き割り)に過ぎない。主役は「恋する自分たち」だ。
「な、なんだよ……これ……魚見にきてんじゃねぇのか? こいつら……」
俺はポツリと呟き、救いを求めるように隣を見た。
――同じだった。ねむもまた、足を止めていた。
普段の澄ました表情はどこへやら、頭を前に突き出し、口を半開きにしてその光景を凝視している。
まるで、未知の文明に迷い込んだ異星人の顔つきだ。彼女の唇が、パク、パクと無音で動く。
えっ? えっ? なにあれ? どういうこと? なんであんなにくっついてるの?
そんな心の声が聞こえてきそうだ。
そう。俺たちは知らなかった。この場所が、県内屈指のデートスポットであり、恋人たちの聖地と化しているという事実を。
俺とねむ。親友以上、恋人未満。
「デート」という名目すら曖昧なままここに来てしまった俺たちは、圧倒的な「恋愛強者」たちのオーラに当てられ、入り口の前でただ立ち尽くすしかなかった。
落ち着け、検索しろ。かつて読み漁った論文の中に、この状況を打開する鍵があったはずだ。
確か、『強化学習を用いた対人関係構築の最適化』に関する論文だ。一万回の仮想デートをQ学習で最適化するという、狂気と遊び心が入り混じった実験レポート。
報酬関数をどう設定するかで、ロマンスの成否が決まるというあの理論……。
ど、どんな結論だった……くそッ。思い出せるわけがないだろうッ!!
バカか俺はッ! 死ねッ! 思考が空回りして、行き場をなくした手が意味もなく開閉する。
縋るように隣を見ると、そこには微動だにしない少女がいた。
両腕をしっかりと組み、足を肩幅に開き、眼前に聳え立つ水族館を睨め上げている。その姿は、魔王城の門前に立つ勇者のごとし。
フン、と荒い鼻息を一つ鳴らすと、彼女はバッと俺の方を向いた。
【たこ焼き。ソフトクリーム。ホタルイカ。マグロ。行くよッ!!】
指先が弾丸のようにメニューを列挙していく。
……は?
魚は? 生体展示は? 俺の疑問を置き去りにして、ねむはズカズカと前を歩き始めた。その背中は、水族館の入り口ではなく、明らかに併設された「レストハウス(食堂)」の方角を向いている。
……そんなもん、地元でも食えるだろッ!
「おいッ! 魚は!? 見ないのかよ!?」
慌てて声を上げると、ねむは急停止し、踵を返した。そして、呆れたように、けれど力強く手話を叩きつける。
【腹が減っては戦はできぬ。だろ!?】
「……確かに」
時計を見れば、とうに正午を回っている。俺たちの腹時計は、ロマンスよりもカロリーを求めていた。
俺たちは水族館の横にあるレストハウスへと足を踏み入れた。
ソースの焦げる甘辛い匂いと、揚げ油の香ばしい匂いが押し寄せてくる。中はフードコートになっており、ピークを過ぎたのか、ちらほらと空席も見える。
「ねむ。どうする? 俺が注文の列に並んでくるか? その間に、ねむが席を確保する?」
ねむは俺の顔の前で、人差し指をチッチッチと左右に振った。
【一緒に頼んで、一緒に席を探す。効率を求めるな】
ピッ、ピッ、と指揮棒を振るように、彼女の手が優雅に宙を舞う。
「は、はい」
【着いてくるのだ!】
そのサインは、どこかの厳格なマエストロのようだった。
彼女が振るタクトに逆らう権利など、俺には端から存在しない。
言われるがまま、俺はねむの後ろについて食券売り場の列に並んだ。
一歩前を行くねむの背中。ふわりと揺れる髪から、微かに甘いシャンプーの香りが漂う。
時折、彼女が振り返っては、俺を見て楽しそうに笑う。
可愛い……。本当に、どうしようもなく。後ろから抱きしめたい……やばい……。
……やめろッ! 変なことを考えるなッ! 思考を逸らせ! 理性に逃げ込め!
そうだッ! 強化学習だッ! 多腕バンディット問題だ!
複数の選択肢から、いかにして最大の報酬を得るかという確率的アルゴリズム。これを配偶者探索モデル“Mating”に応用すれば、最適解が導き出せるはず……。
いや、ダメだッ! あれは「複数の相手」を試行錯誤して選別するためのモデルだッ!
今の俺の目の前には、「ねむ」という唯一無二の選択肢しかない。スロットマシンは一台しかないんだ。他の選択肢なんて、俺の世界には存在しないんだから、比較検討なんてできるわけがないだろうッ! そもそも、論文の中身なんて一行も思い出せねぇッ!!
頭を抱え、自身の思考回路のショートに悶絶した。心拍数が上がり、呼吸が浅くなる。
ふと視線を感じた。ねむが、じっと俺を見ている。
心配そうに、けれどどこかいたわるような瞳で、微笑んでいた。
「え、ごめん。……ちょっとまた、発作が」
掠れた声で言い訳をすると、ねむは優しく頷いた。
右手を胸に当てて下ろし、曲げた指先を左胸から右胸へ移す。俺を気遣うように眉を寄せたあと、右手を腹の前で握りながら引き上げ、得意げに顎を上げた。
【うん、わかってるよ? 大丈夫。今はちょっとだけ苦しいと思うけど、少ししたら治るから。先輩が言ってるんだから、信じなさい】
その手話は、迷える子羊を導く預言者のようだった。
……やばいな。こいつ、俺のこの動悸を、未だに「中二病の古傷が痛んでいる」と勘違いしている。俺の恋心は、彼女の中で「思春期特有の黒歴史」として処理されている。




