↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
こえあらず ほうに恋ありけり  作者: ぶりかま
九章 恋の強化学習
PR
38/40

第38話 強化学習、多腕バンディット

 数分もしないうちに潮騒が大きくなり、視界が開けた。色褪せた観覧車と、その隣に建つ魚津水族館。日本最古の歴史を持つ水族館らしく、どこか昭和の面影を残している。

 ゴールデンウィーク初日。敷地内は家族連れや観光客で賑わっていた。

だが、正門に近づくにつれ、俺の足取りは重くなる。……なんだ、この空間は。


「待て待て……」


 俺の動体視力が、異常な数値を弾き出す。

 視界に入る男女の群れ。その密度と距離感が、俺の知る「観光」の定義を逸脱していた。

 ベージュのトレンチコートで全身を揃えた、完全ペアルックの男女。

 一つのソフトクリームを交互に舐め合い、「冷たーい!」「甘ーい!」と嬌声を上げる二人組。人目も憚らず腰に手を回し、互いの体温を確かめ合うようにゼロ距離で歩くカップルたち。

 ここは魚の生態を学ぶための学術施設ではなかったのか?

 いや、今の彼らにとって魚など背景(書き割り)に過ぎない。主役は「恋する自分たち」だ。


「な、なんだよ……これ……魚見にきてんじゃねぇのか? こいつら……」


 俺はポツリと呟き、救いを求めるように隣を見た。

 ――同じだった。ねむもまた、足を止めていた。

 普段の澄ました表情はどこへやら、頭を前に突き出し、口を半開きにしてその光景を凝視している。

 まるで、未知の文明に迷い込んだ異星人の顔つきだ。彼女の唇が、パク、パクと無音で動く。

 えっ? えっ? なにあれ? どういうこと? なんであんなにくっついてるの?

 そんな心の声が聞こえてきそうだ。

 そう。俺たちは知らなかった。この場所が、県内屈指のデートスポットであり、恋人たちの聖地と化しているという事実を。

 俺とねむ。親友以上、恋人未満。

「デート」という名目すら曖昧なままここに来てしまった俺たちは、圧倒的な「恋愛強者」たちのオーラに当てられ、入り口の前でただ立ち尽くすしかなかった。


 落ち着け、検索しろ。かつて読み漁った論文の中に、この状況を打開する鍵があったはずだ。

 確か、『強化学習を用いた対人関係構築の最適化』に関する論文だ。一万回の仮想デートをQ学習で最適化するという、狂気と遊び心が入り混じった実験レポート。

 報酬関数をどう設定するかで、ロマンスの成否が決まるというあの理論……。

 ど、どんな結論だった……くそッ。思い出せるわけがないだろうッ!!

 バカか俺はッ! 死ねッ! 思考が空回りして、行き場をなくした手が意味もなく開閉する。


 縋るように隣を見ると、そこには微動だにしない少女がいた。

 両腕をしっかりと組み、足を肩幅に開き、眼前に聳え立つ水族館を睨め上げている。その姿は、魔王城の門前に立つ勇者のごとし。

 フン、と荒い鼻息を一つ鳴らすと、彼女はバッと俺の方を向いた。


【たこ焼き。ソフトクリーム。ホタルイカ。マグロ。行くよッ!!】


 指先が弾丸のようにメニューを列挙していく。

 ……は?

 魚は? 生体展示は? 俺の疑問を置き去りにして、ねむはズカズカと前を歩き始めた。その背中は、水族館の入り口ではなく、明らかに併設された「レストハウス(食堂)」の方角を向いている。

 ……そんなもん、地元でも食えるだろッ!


「おいッ! 魚は!? 見ないのかよ!?」


 慌てて声を上げると、ねむは急停止し、踵を返した。そして、呆れたように、けれど力強く手話を叩きつける。


【腹が減っては戦はできぬ。だろ!?】

「……確かに」


 時計を見れば、とうに正午を回っている。俺たちの腹時計は、ロマンスよりもカロリーを求めていた。

 俺たちは水族館の横にあるレストハウスへと足を踏み入れた。

 ソースの焦げる甘辛い匂いと、揚げ油の香ばしい匂いが押し寄せてくる。中はフードコートになっており、ピークを過ぎたのか、ちらほらと空席も見える。


「ねむ。どうする? 俺が注文の列に並んでくるか? その間に、ねむが席を確保する?」


 ねむは俺の顔の前で、人差し指をチッチッチと左右に振った。


【一緒に頼んで、一緒に席を探す。効率を求めるな】


 ピッ、ピッ、と指揮棒を振るように、彼女の手が優雅に宙を舞う。


「は、はい」

【着いてくるのだ!】


 そのサインは、どこかの厳格なマエストロのようだった。

 彼女が振るタクトに逆らう権利など、俺には端から存在しない。

 言われるがまま、俺はねむの後ろについて食券売り場の列に並んだ。

 一歩前を行くねむの背中。ふわりと揺れる髪から、微かに甘いシャンプーの香りが漂う。

 時折、彼女が振り返っては、俺を見て楽しそうに笑う。

 可愛い……。本当に、どうしようもなく。後ろから抱きしめたい……やばい……。

 ……やめろッ! 変なことを考えるなッ! 思考を逸らせ! 理性に逃げ込め!

 そうだッ! 強化学習だッ! 多腕バンディット問題だ!

 複数の選択肢から、いかにして最大の報酬を得るかという確率的アルゴリズム。これを配偶者探索モデル“Mating”に応用すれば、最適解が導き出せるはず……。


 いや、ダメだッ! あれは「複数の相手」を試行錯誤して選別するためのモデルだッ!

 今の俺の目の前には、「ねむ」という唯一無二の選択肢しかない。スロットマシンは一台しかないんだ。他の選択肢なんて、俺の世界には存在しないんだから、比較検討なんてできるわけがないだろうッ! そもそも、論文の中身なんて一行も思い出せねぇッ!!

 頭を抱え、自身の思考回路のショートに悶絶した。心拍数が上がり、呼吸が浅くなる。


 ふと視線を感じた。ねむが、じっと俺を見ている。

 心配そうに、けれどどこかいたわるような瞳で、微笑んでいた。


「え、ごめん。……ちょっとまた、発作が」


 掠れた声で言い訳をすると、ねむは優しく頷いた。

 右手を胸に当てて下ろし、曲げた指先を左胸から右胸へ移す。俺を気遣うように眉を寄せたあと、右手を腹の前で握りながら引き上げ、得意げに顎を上げた。


【うん、わかってるよ? 大丈夫。今はちょっとだけ苦しいと思うけど、少ししたら治るから。先輩が言ってるんだから、信じなさい】


 その手話は、迷える子羊を導く預言者のようだった。

 ……やばいな。こいつ、俺のこの動悸を、未だに「中二病の古傷が痛んでいる」と勘違いしている。俺の恋心は、彼女の中で「思春期特有の黒歴史」として処理されている。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。