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こえあらず ほうに恋ありけり  作者: ぶりかま
九章 恋の強化学習
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第36話 おめかし

 一旦それぞれの家に帰り、身支度を整えた俺は、ねむの家の目の前の「映えスポット」とされるベンチで、石動さんと共に鉛色の空を見上げていた。


「すいません、石動さん。急に駅までお願いしちゃって」


 俺は頭を下げた。彼は村の移動手段の要であり、この限界集落の足そのものだ。


「はは。なーん、いいちゃ、いいちゃ。気にすんなま」


 石動さんは日焼けした顔を崩して笑った。その優しさに甘えてばかりだ。

 俺たちの住む地域は、最寄りの駅までが絶望的に遠い。この集落から最寄り駅までは徒歩で四時間。さらに電車を一本逃せば、一時間や二時間待ちは珍しくない。

 そんな土地柄で、計画もなしに「今日の今日で水族館」というのは、正気の沙汰ではない。時刻表を一つ読み違えれば、その時点で予定は崩壊する。緻密なダイヤグラムを組まなければ、この田舎の迷宮からは脱出できない。


「休日にハルとねむちゃんに会えるなんて、わしにとっちゃご褒美みたいなもんやが」

「またまた……。毎日送迎してくれてるのに……。それにしても、ねむ、遅いですね……」

「んー。どしたんがな? おめかしに気合入っとるんかもしれんのぉ」


 ねむは一度家に戻ってから、なかなか姿を見せない。

 既に一時間が経過しようとしている。腕時計を見る。もうすぐ十一時だ。

 スマホで駅の時刻表を検索するが、ねむが出てこないせいで、乗車予定の電車が一本、また一本と見送りになっていく。そもそも、石動さんの車で水族館まで直行してもらえば話は早いのだ。だが、ねむはそれを頑なに拒んだ。「どうしても電車に乗りたい」と。


 青い光に満ちた水槽の前で、瞳を輝かせるねむが見たい。地元の魚を見て、美味しそうだと笑うねむが見たい。

 その時間が、刻一刻と削られていくのが惜しかった。

 ふと思う。

俺の目的、いつの間にかすり替わっていないか? 既成事実を作るんじゃなかったのか?

 自問自答していると、ねむの家から、ドタバタと騒がしい音が響いてきた。ドアが勢いよく開く音。


 ――お待たせッ!


 声にならない声が聞こえた気がした。俺と石動さんが振り返る。

 そこには、別人のような少女が立っていた。

 純白のキャミソールワンピース。その上から、透けるように薄いペールブルーのカーディガンを羽織っている。風を孕んでふわりと広がるスカートの裾は、雲間から差す光を吸い込んで輝いているようだった。肩には、蔓(つる)で編まれた山葡萄のショルダーバッグ。素朴だが、彼女が持つとアンティークの工芸品のように見える。


 そして、何より――。

 パタパタと小走りで近づいてくる彼女の顔を見て、思わず息を呑んだ。

 いつもは洗顔したままの無防備な素顔だ。けれど今は、頬も、唇も、まつ毛も、いつもと違う。どこがどう違うのかは分からないのに、目が離せなかった。

 化粧をしている。それも、派手に飾り立てるのではなく、彼女の素材の良さを極限まで引き出すための、恐ろしく計算された手管で。

 ……マズい、直視できない。俺が言葉を失っていると、ねむは目の前で急ブレーキをかけ、バッと両手を突き出した。


【靴ッ! 厚底!? スニーカー!? どっち!?】


 キレのある、しかし大雑把な手話。

 彼女の足元を見ると、玄関には二種類の靴が用意されているらしい。唐突な二択。

 これから駅で歩き、乗り換えもある。さらに水族館を歩き回るのだ。俺は迷わず、「転ばないように」という合理性と安全性を込めて、ハンドサインを返した。


【スニーカー】


 ねむは俺のサインを見ると、【OK】と親指を立て、再び玄関へと猛ダッシュで戻っていった。

 数秒後。満足げな顔で戻ってきたねむの足元を見て、愕然とした。

 厚底のサンダルだった。


 (……な、なぜ俺に聞いた……)


 俺の「スニーカー」という助言は、一体どこの時空へ消えたんだ?

 呆気にとられる俺の前で、ねむは「どう?」とばかりにクルリと一回転してみせた。ワンピースの裾が舞い、微かに甘い香りが鼻をくすぐる。

 不合理だ。合理的判断の欠片もない。それなのに。

 心から――綺麗だと思ってしまった。


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