第36話 おめかし
一旦それぞれの家に帰り、身支度を整えた俺は、ねむの家の目の前の「映えスポット」とされるベンチで、石動さんと共に鉛色の空を見上げていた。
「すいません、石動さん。急に駅までお願いしちゃって」
俺は頭を下げた。彼は村の移動手段の要であり、この限界集落の足そのものだ。
「はは。なーん、いいちゃ、いいちゃ。気にすんなま」
石動さんは日焼けした顔を崩して笑った。その優しさに甘えてばかりだ。
俺たちの住む地域は、最寄りの駅までが絶望的に遠い。この集落から最寄り駅までは徒歩で四時間。さらに電車を一本逃せば、一時間や二時間待ちは珍しくない。
そんな土地柄で、計画もなしに「今日の今日で水族館」というのは、正気の沙汰ではない。時刻表を一つ読み違えれば、その時点で予定は崩壊する。緻密なダイヤグラムを組まなければ、この田舎の迷宮からは脱出できない。
「休日にハルとねむちゃんに会えるなんて、わしにとっちゃご褒美みたいなもんやが」
「またまた……。毎日送迎してくれてるのに……。それにしても、ねむ、遅いですね……」
「んー。どしたんがな? おめかしに気合入っとるんかもしれんのぉ」
ねむは一度家に戻ってから、なかなか姿を見せない。
既に一時間が経過しようとしている。腕時計を見る。もうすぐ十一時だ。
スマホで駅の時刻表を検索するが、ねむが出てこないせいで、乗車予定の電車が一本、また一本と見送りになっていく。そもそも、石動さんの車で水族館まで直行してもらえば話は早いのだ。だが、ねむはそれを頑なに拒んだ。「どうしても電車に乗りたい」と。
青い光に満ちた水槽の前で、瞳を輝かせるねむが見たい。地元の魚を見て、美味しそうだと笑うねむが見たい。
その時間が、刻一刻と削られていくのが惜しかった。
ふと思う。
俺の目的、いつの間にかすり替わっていないか? 既成事実を作るんじゃなかったのか?
自問自答していると、ねむの家から、ドタバタと騒がしい音が響いてきた。ドアが勢いよく開く音。
――お待たせッ!
声にならない声が聞こえた気がした。俺と石動さんが振り返る。
そこには、別人のような少女が立っていた。
純白のキャミソールワンピース。その上から、透けるように薄いペールブルーのカーディガンを羽織っている。風を孕んでふわりと広がるスカートの裾は、雲間から差す光を吸い込んで輝いているようだった。肩には、蔓で編まれた山葡萄のショルダーバッグ。素朴だが、彼女が持つとアンティークの工芸品のように見える。
そして、何より――。
パタパタと小走りで近づいてくる彼女の顔を見て、思わず息を呑んだ。
いつもは洗顔したままの無防備な素顔だ。けれど今は、頬も、唇も、まつ毛も、いつもと違う。どこがどう違うのかは分からないのに、目が離せなかった。
化粧をしている。それも、派手に飾り立てるのではなく、彼女の素材の良さを極限まで引き出すための、恐ろしく計算された手管で。
……マズい、直視できない。俺が言葉を失っていると、ねむは目の前で急ブレーキをかけ、バッと両手を突き出した。
【靴ッ! 厚底!? スニーカー!? どっち!?】
キレのある、しかし大雑把な手話。
彼女の足元を見ると、玄関には二種類の靴が用意されているらしい。唐突な二択。
これから駅で歩き、乗り換えもある。さらに水族館を歩き回るのだ。俺は迷わず、「転ばないように」という合理性と安全性を込めて、ハンドサインを返した。
【スニーカー】
ねむは俺のサインを見ると、【OK】と親指を立て、再び玄関へと猛ダッシュで戻っていった。
数秒後。満足げな顔で戻ってきたねむの足元を見て、愕然とした。
厚底のサンダルだった。
(……な、なぜ俺に聞いた……)
俺の「スニーカー」という助言は、一体どこの時空へ消えたんだ?
呆気にとられる俺の前で、ねむは「どう?」とばかりにクルリと一回転してみせた。ワンピースの裾が舞い、微かに甘い香りが鼻をくすぐる。
不合理だ。合理的判断の欠片もない。それなのに。
心から――綺麗だと思ってしまった。




