第33話 チョコレートケーキ
午前八時。俺とねむは、宇波家の玄関前に立ち、古びたインターホンを押した。
ピンポーン、と少し間の抜けた音が家の中に響く。すぐに、奥から物音がした。
「入られーッ!」
「はーいッ! お邪魔しまーすッ!」
引き戸に手をかけ、ガララと開ける。
土間の向こうから、宇波さんが右足を引き摺るようにして出迎えてくれた。
ズリ、ズリ、という足音が、引退の理由を無言で物語っているようで、胸が痛む。
「あぁ? ……ハルじゃねぇか。なしてここにおるが? ねむちゃんと二人きりの予定やったがに……」
宇波さんは俺の顔を見るなり、がっくりと首を垂れた。露骨に残念そうだ。
「急に暇になったんですよ。……それとも、若い女の子と一対一の方が良かったですか?」
「なーん。いいが、いいが。ねむちゃんと会えただけでもええちゃ。……ま、ハルが来たんなら、ちょうどいい。ちょっと頼みたいことがあるがいけど」
「え? 何?」
「デーブイデーの本体、直され」
「……デーブイデー?」
一瞬考え、ああと納得する。DVDプレーヤーのことか。
「まま、早よ上がれ。ケーキ買うてあるがや。ねむちゃんの好きなチョコレートケーキ。ハルもよばれ」
そう促され、俺たちは茶の間へと通される。畳の部屋は、意外なほど整理整頓されていた。
物が少なく、生活感が希薄で、どことなく殺風景だ。だが、部屋の隅にある祭壇のようなスペースだけが、極彩色に彩られている。
壁一面に貼られた写真。
息子さん夫婦だろうか、彼らと一緒に写る宇波さんの顔は、漁師の顔ではなく、ただの好々爺のものだ。お孫さんと一緒にピースサインをする姿が、何枚も飾られている。
その横には、お孫さんがクレヨンで描いたとおぼしき似顔絵。
輪郭はジャガイモのように歪で、目は点、口は一本線。人間には見えない前衛的な作品だが、そこからは強烈な愛と癒しが放射されていた。
俺は思わず口元を緩めた。隣を見ると、ねむも目を細め、同じ柔らかい表情を浮かべている。
「ハル、ねむちゃん。そこ座られ」
宇波さんが盆を持って現れた。
やはり、右足を庇うように身体を揺らして歩いている。テーブルに茶菓子を置くその手を見る。長年網を引いてきた上半身の筋肉は、未だに鋼のように盛り上がっているが、指先は微かに震えていた。
老いという現実は、残酷なまでに正直だ。
「宇波さん。大丈夫ー? 手伝うことない~?」
俺が腰を浮かせかけると、宇波さんは片手で制した。
「なーん、いいちゃ」
そして、目の前にチョコレートケーキと湯呑みが置かれた。その瞬間、ねむの目が輝き、彼女は音のない拍手をパチパチと送り、両手を合わせて宇波さんに何度も深々と頭を下げた。その仕草が愛らしくて、宇波さんの目尻が下がる。
「ええ、ええ。食べられ。二人とも」
「いただきます」
俺たちは遠慮なくケーキにフォークを入れた。甘いチョコレートの味が口いっぱいに広がる。
ふと視線を感じて顔を上げると、宇波さんは自分のお茶には口もつけず、ただニコニコと俺たちが食べる様を眺めていた。
自分の前には何も置かず、ただ、孫が餌を頬張るのを見守るような、慈愛に満ちた瞳。
「見ているだけで腹一杯だ」と言わんばかりの幸せそうな顔が、なぜか無性に切なかった。
すると唐突に、宇波さんが口を開いた。
「もうな、お前ら二人は……付き合っとるがけ? どうなん?」
「――ブフッ!!」
俺とねむは、示し合わせたように同時にお茶を吹き出しそうになった。
「な、なんで急にそんな話になるんですか……ッ、ゲホッ。……ねむ、大丈夫か? 気管に入ってない?」
俺が背中をさすると、ねむは涙目で「大丈夫」とサインを送ってくる。
「だってよぉ、昔からずっと一緒におるやろ」
宇波さんはニヤニヤと笑っている。
「いや、そうだけど……。昔って言っても中学からだから。そんなには長くないでしょ」
「そーか? なーんか、何十年と一緒に連れ添っとる夫婦みたいな感じやがのぉ」
「何十年って……まだ高校生です。十七です」
「そーか? ……まぁええが。食い終わったらデーブイデー頼むな?」
宇波さんは悪びれもせず、湯呑みを啜った。俺は咳き込みながら、小さく溜息をつく。
「……うん、わかった。食べ終わる前に変なこと言わないでくれよ、心臓に悪い」
「あはは、すまんすまん」
豪快に笑うその声も、以前より少し枯れて聞こえた。
俺たちは再びケーキに向き合ったが、その甘さは、先ほどよりも少しだけ気恥ずかしい味がした。




