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こえあらず ほうに恋ありけり  作者: ぶりかま
八章 ロトカ=ヴォルテラ
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33/40

第33話 チョコレートケーキ

 午前八時。俺とねむは、宇波家の玄関前に立ち、古びたインターホンを押した。

 ピンポーン、と少し間の抜けた音が家の中に響く。すぐに、奥から物音がした。


「入られーッ!」

「はーいッ! お邪魔しまーすッ!」


 引き戸に手をかけ、ガララと開ける。

 土間の向こうから、宇波さんが右足を引き摺るようにして出迎えてくれた。

 ズリ、ズリ、という足音が、引退の理由を無言で物語っているようで、胸が痛む。


「あぁ? ……ハルじゃねぇか。なしてここにおるが? ねむちゃんと二人きりの予定やったがに……」


 宇波さんは俺の顔を見るなり、がっくりと首を垂れた。露骨に残念そうだ。


「急に暇になったんですよ。……それとも、若い女の子と一対一の方が良かったですか?」

「なーん。いいが、いいが。ねむちゃんと会えただけでもええちゃ。……ま、ハルが来たんなら、ちょうどいい。ちょっと頼みたいことがあるがいけど」

「え? 何?」

「デーブイデーの本体、直され」

「……デーブイデー?」


 一瞬考え、ああと納得する。DVDプレーヤーのことか。


「まま、早よ上がれ。ケーキ買うてあるがや。ねむちゃんの好きなチョコレートケーキ。ハルもよばれ」


 そう促され、俺たちは茶の間へと通される。畳の部屋は、意外なほど整理整頓されていた。

 物が少なく、生活感が希薄で、どことなく殺風景だ。だが、部屋の隅にある祭壇のようなスペースだけが、極彩色に彩られている。

 壁一面に貼られた写真。

 息子さん夫婦だろうか、彼らと一緒に写る宇波さんの顔は、漁師の顔ではなく、ただの好々爺のものだ。お孫さんと一緒にピースサインをする姿が、何枚も飾られている。

 その横には、お孫さんがクレヨンで描いたとおぼしき似顔絵。

 輪郭はジャガイモのように歪で、目は点、口は一本線。人間には見えない前衛的な作品だが、そこからは強烈な愛と癒しが放射されていた。

 俺は思わず口元を緩めた。隣を見ると、ねむも目を細め、同じ柔らかい表情を浮かべている。


「ハル、ねむちゃん。そこ座られ」


 宇波さんが盆を持って現れた。

 やはり、右足を庇うように身体を揺らして歩いている。テーブルに茶菓子を置くその手を見る。長年網を引いてきた上半身の筋肉は、未だに鋼のように盛り上がっているが、指先は微かに震えていた。

 老いという現実は、残酷なまでに正直だ。


「宇波さん。大丈夫ー? 手伝うことない~?」


 俺が腰を浮かせかけると、宇波さんは片手で制した。


「なーん、いいちゃ」


 そして、目の前にチョコレートケーキと湯呑みが置かれた。その瞬間、ねむの目が輝き、彼女は音のない拍手をパチパチと送り、両手を合わせて宇波さんに何度も深々と頭を下げた。その仕草が愛らしくて、宇波さんの目尻が下がる。


「ええ、ええ。食べられ。二人とも」

「いただきます」


 俺たちは遠慮なくケーキにフォークを入れた。甘いチョコレートの味が口いっぱいに広がる。

 ふと視線を感じて顔を上げると、宇波さんは自分のお茶には口もつけず、ただニコニコと俺たちが食べる様を眺めていた。

 自分の前には何も置かず、ただ、孫が餌を頬張るのを見守るような、慈愛に満ちた瞳。


「見ているだけで腹一杯だ」と言わんばかりの幸せそうな顔が、なぜか無性に切なかった。

 すると唐突に、宇波さんが口を開いた。


「もうな、お前ら二人は……付き合っとるがけ? どうなん?」

「――ブフッ!!」


 俺とねむは、示し合わせたように同時にお茶を吹き出しそうになった。


「な、なんで急にそんな話になるんですか……ッ、ゲホッ。……ねむ、大丈夫か? 気管に入ってない?」


 俺が背中をさすると、ねむは涙目で「大丈夫」とサインを送ってくる。


「だってよぉ、昔からずっと一緒におるやろ」


 宇波さんはニヤニヤと笑っている。


「いや、そうだけど……。昔って言っても中学からだから。そんなには長くないでしょ」

「そーか? なーんか、何十年と一緒に連れ添っとる夫婦みたいな感じやがのぉ」

「何十年って……まだ高校生です。十七です」

「そーか? ……まぁええが。食い終わったらデーブイデー頼むな?」

 宇波さんは悪びれもせず、湯呑みを啜った。俺は咳き込みながら、小さく溜息をつく。

「……うん、わかった。食べ終わる前に変なこと言わないでくれよ、心臓に悪い」

「あはは、すまんすまん」


 豪快に笑うその声も、以前より少し枯れて聞こえた。

 俺たちは再びケーキに向き合ったが、その甘さは、先ほどよりも少しだけ気恥ずかしい味がした。


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