第32話 取り残された二人
翌日。北陸特有の重たい曇天の下、俺は麓の港にあるベンチに腰掛けていた。
背後には、漁で使う巨大なオレンジ色の浮き(ブイ)が山積みにされている。その隙間に埋もれるようにして、ねむがパソコンを膝上に置き、退屈そうな顔であくびを噛み殺していた。
雲間から差した光が、ねむの黒髪を柔らかな琥珀色に透かしていた。
「ねむ。宇波さんの家、何時に行けばいいの?」
尋ねると、膝上のノートパソコンをタララッとタイピングして無機質な合成音声が流れた。
:『八時だよー』
視線の先、道路を挟んですぐ向かいに、宇波さんの家がある。
潮風に晒されて板壁が痩せた、古びた日本家屋だ。庭の片隅には、一人乗りの小さなボートが裏返しに置かれている。
船底には緑色の苔がびっしりとこびりつき、もうしばらく海に出ていないことが一目でわかった。時間の止まった光景だ。
「まだ時間あるな。……俺、このあと爺さんと國崎と話があるから。一人で大丈夫か?」
:『問題なーい』
電子音も軽い返事だ。ねむは今日、宇波さんの足の具合を見るため、両親の代理で来ている。
会話ツールはいつものスマホではなく、仕事用のノートパソコンだ。
声が出ないというハンデは、彼女にとってはもう何の障壁にもなっていない。
その証拠に、彼女はとろんとした半眼で、緊張のかけらも見せていない。
このパターンは……あと十秒で落ちるな。
俺が心の中でカウントダウンを始めると、予想通り、カクンと首が落ちた。
七秒か。見積もりより早かった。
こいつはいつ、いかなる時でも、場所を選ばずに眠ることができる。
両親は完璧な名前をつけたものだ。「ねむ」以外の名前など、この個体にはあり得ない。
呆れていると、海岸沿いの道路から、キコキコとチェーンの錆びた音を響かせて、一台のママチャリが近づいてきた。
立ち漕ぎで必死にペダルを踏んでいるのは、國崎だ。ガチャン、と乱暴に自転車を止め、肩で息をしながら近づいてくる。
「よー! 悪りぃな、ハル。……あれ? 香椎さんもいんの?」
「よぉ。お前にしては随分早いな」
俺が顎で指し示すと、國崎はねむを見た。
彼女は腕をダラリと下げ、完全に夢の中だ。男二人の会話など、子守唄にもならないらしい。
「もしかして香椎さんも体験しに来た?」
「いいや? 別件だ。八時になったら宇波の爺さんの家に行くらしい」
「宇波の爺さん? へー。最近見ねぇなぁ」
俺と國崎は、苔むしたボートのある家をしばらく見上げた。
「で? 龍一さんは? もう来てる?」
「あぁ。いるよ。船の中でメンテしてるから、時間になったら行こう」
「オッケーッ! ……って、ああっ!!」
突然、國崎が素っ頓狂な大声を上げた。
その音量に反応して、ねむがビクンと身体を跳ねさせる。
彼女は眠そうな目をこすり、口元のよだれを手の甲で拭うと、素早くキーを叩いて画面を國崎に向けた。
:『おはよう』
「おー。香椎さんおはようッ! ……やべー、忘れたー」
「何忘れたんだよ。体験に何も必要ねぇだろ」
「いや、スタビライザーだよ。昨日、わざわざ買ったんだよなぁ」
「は? 何に使うんだよ」
「そりゃ今日の体験を動画に撮るためだよ」
國崎は真顔で言った。俺は眉を顰める。
「あ? なんで動画に撮るんだよ」
「メモ取れねぇからだろ。紙に書いても頭に入んねえっつうの。俺の脳みそ舐めんなよ」
「え? 待って? ……お前、なんでそんな真剣なわけ? ってかYouTubeにでもあげようとしてんのか?」
「は? 編集なんか俺にできるわけねぇだろ。勉強用だよ、勉強」
「勉強……。お前の口からその単語が出るとはな」
「あー。確かに。……まぁ、いいだろ。気にすんな」
國崎はバツが悪そうに鼻を擦った。
いよいよ気になる。万年ビリで、授業中は寝てばかりの奴が、なぜうちの漁を見に来たのか。
「お前、そろそろ話せよ。理由」
「んー。嫌だ。お前には話さない」
國崎は頑なに首を振った。
「今日、別にお前は居なくていいぞ? 俺も龍一さんとは顔馴染みなんだから」
「は? 適当すぎるお前が、俺の祖父に迷惑かけるか心配なんだよ」
「ひぃー! 信用されてねぇなぁぁ! あははは!」
「そりゃお前の普段の行いを見てりゃ思うだろ」
「待って待って。俺は本当に学がねぇだけ。……ってか一緒だよ。お前と」
國崎の声のトーンが、ふっと落ちた。
「ちょっと真剣に、将来のこと考えてるだけだよ」
意外だった。
その瞳には、いつものふざけた色はなく、どこか切実な光が宿っていた。こいつもまた、俺たちの知らないところで何かと戦っているのかもしれない。
「……ってか、お前がいるとやりにくいから、やっぱりお前来んなよ。龍一さんには俺が言ってやるから」
「それは俺が言うことだからな? ダメだ。俺が監視する」
そんな押し問答をしていると、背後の岸壁から、のそっとした重たい音が響いた。係留された船から、祖父が顔を出したのだ。
「おーッ! 久しぶりやなー。大輔ー。早よ、船に乗られー!」
祖父が元気よく、國崎の下の名前を呼ぶ。
「おはようございますッ! 龍一さんッ! 今日はお世話になりますッ!」
國崎が直立不動で頭を下げる。
すると祖父は、俺の方を見て手をシッシッと振った。
「ハルーッ! お前は今日は帰られーッ! 話は聞いとるちゃー!」
「……は?」
祖父がなぜか俺を追い払おうとしている!?
「待ってよッ! 俺も行くよッ! 心配だし!」
「なーん。ダメだ。帰られー! わしと大輔でやるがやから、邪魔すんなま!」
嘘だろ? なんで俺が悪者扱いなんだ?
「あはははは! 悪りぃなッ、ハル! 今日は一日、龍一さん借りるわッ!! たまには帰って寝てろぉ!」
國崎はここぞとばかりに勝ち誇った顔を見せ、軽い足取りでタラップを駆け上がり、祖父と共に船内へと消えていった。
エンジン音が唸りを上げ、黒煙が上がる。
……は?
どういうことだよ、これ。
ポツンと取り残された俺。呆然としていると、隣でパタン、と乾いた音がした。
ねむが膝上のノートパソコンを閉じ、俺の方へ身体を向けた。
そして、悪戯っぽい瞳で俺を見つめ、スッと手を動かす。
俺を軽く指差すと、左手の親指を胸の前に立てた。右手の指先を下に向け、その親指の周囲をくるくると回す。最後に俺の目を見て、眉をひょいと上げ、からかうようにニヤリとした。
【一人ぼっちになっちゃったね】
さっきまでの機械的な文字の羅列とは違う、体温のある言葉。
ねむは肩を震わせ、明らかに俺を笑っている。
……そんな顔まで可愛く見えるんだから、もう重症だ。
「……一人じゃねぇだろ。お前がいる」
俺は溜息混じりに、けれど確かな熱を込めて返した。
「一緒に行こうぜ。宇波さんのところ」
ねむはニッコリと微笑み、ピッと敬礼するように指を揃えた。
【はーい。了解しましたー】




