第31話 また一人…
俺がスマホを取り出そうとすると、祖父は「そうそう」と思い出したように言葉を継いだ。
「そうそう。宇波の爺さんな。今年で引退すっちゃ」
俺の指が、画面の上でピタリと止まった。
「……え?」
「将来、香椎さんとこで世話になろうと思っとるがやけど、よかったらねむちゃんにも言うといてくれんけ?」
「宇波さん……引退するの?」
「うん。もう右足が動かんがやと。車も運転できんようになってしもうてな」
祖父は湯呑みを啜りながら、淡々と言った。まるで明日の天気の話でもするように。
「あ……新しい人って、入ったりする?」
縋るように聞いてしまった。祖父は静かに首を横に振った。
「なん」
その短い一言が、部屋の空気を重くした。また、一人。この港から、技術と労働力が消える。
俺は唇を噛んだ。……いや、全然いい。引退しても何も問題ない。俺がいるんだ。俺が二倍動けばいいだけの話だ。大丈夫だ。
「……そっか。本当にお疲れ様だよ。わかった、ねむに伝えとく」
祖父の言う「香椎さんのところ」というのは、ねむの実家のことだ。
ねむの両親は、高齢者や障がい者の送迎や買い物支援を担っている。宇波さんが現場を離れれば、今度はそちらの負担も増えるだろう。
誰か一人が抜ければ、その穴を別の誰かが埋める。
この村は、そうやってギリギリで回っている。
この限界集落において、香椎家は「命綱」だ。文字通り、彼らがいなければ生活が成り立たない家がたくさんある。
「ハル」
唐突に、祖父が俺の名前を呼んだ。
視線を上げると、さっきの柔和な笑顔が消え、射抜くような真剣な眼差しが俺を捉えていた。
「変な責任感、持たんなよ?」
一瞬、言葉に詰まった。見透かされている。
「……全然。そんなこと、思ってないよ」
俺は笑顔を貼り付け、即座に否定した。だが、祖父の目は誤魔化せなかった。
「わしは、ハルが継いでくれるって言うてくれるのは嬉しいがやけど」
祖父は言葉を区切り、俺の目をじっと覗き込んだ。
「ハルの足枷にはなりとうないがや。……ゆっくり、考えられ」
「……うん。ありがとう」
「足枷」という言葉の重みが、俺の胸を締め付ける。
これ以上、ボロが出ないうちにここを出よう。
「じゃあ、國崎に電話しとくよ」
俺は立ち上がり、振り返らずに離れを出た。雨足は、さっきよりも強くなっていた。
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作者より
(中書き)
ここまで『こえあらず ほうに恋ありけり!』を読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。
ここまでの物語は、かなりゆっくりとしたペースで進んできました。
正直、「いつになったら話が進むんだ!」と思われた方もいらっしゃるかもしれません。
でも、どうしても描いておきたかったんです。
ハルたちが過ごす、なんでもない毎日を。
家族とご飯を食べて、くだらないことで笑って、友達とふざけ合って。そんな、物語としては大きな事件も起こらない日常です。
特に芦名家の家族たちは、ハルにとって欠かせない日常の一部です。
だからこそ、物語の都合で突然登場する人物ではなく、最初からそこに暮らしていて、笑ったり、喧嘩したり、くだらないことで騒いだりする、そんな家族として描いておきたかったんです。
その結果、ずいぶんと長い助走になってしまいました。
それでも、ここまでお付き合いいただけたことが、本当に嬉しいです。
そして、ここから物語は少しずつ動き始めます。
これまで描いてきた、ハルたちのなんでもない日常。
その日常が、彼らにとってどれほど大切なものなのか。そして、その中で彼らがどんな未来を選んでいくのか。
ここまで読んでくださった皆様に、最後まで見届けていただけたら嬉しいです。
本当に、ありがとうございます。
ぶりかま




