第30話 離れの茶の間
俺たちの家、芦名家の母屋の裏手。手入れされた庭木の先にある、一回り小さな日本家屋。俺は雨に濡れた石畳を踏み、その引き戸をガララと開けた。
「ただいまー」
土間の匂い。母屋とは違う、少し古びた木と畳の懐かしい香りが鼻腔をくすぐる。
すぐに、奥の居間からパタパタと足音がして、女性が顔を出した。
「あらー。ハルちゃん、おかえり。どうしたの?」
彼女は母さんの母親――俺の祖母だ。背筋は真っすぐで、今でも港に立つ姿は若々しい。
「おばあちゃん。……おじいちゃんは、もう帰って来てる?」
「うん。今ちょうどお風呂に入ってるよ。少しここで待ってる?」
「ありがとう。そうさせてもらうよ」
俺は靴を脱ぎ、上がり框を越えて奥の茶の間へと向かった。使い込まれたちゃぶ台の前に腰を下ろし、ふう、と息をつく。
今俺たちが暮らしている母屋は、もともと祖父母の家だった。大人数の俺たちを受け入れるために譲ってくれて、二人はこの離れへ移った。
だから俺は、今でも少しだけ負い目がある。
俺たちが来なければ、二人は今もあの家で暮らしていたんじゃないか――そんなことを考えてしまう。
「ハルちゃん、なんか食べる? それとも母屋で晩御飯あるからいい?」
「あー……。おばあちゃんが漬けた、ノビルの味噌漬けとかある? 久々に食べたいな」
「はいはーい。あるよー」
祖母は嬉しそうに台所へ立ち、すぐに小鉢を持って戻ってきた。
琥珀色に浸かった、野生の小玉ねぎのような粒。一つ摘んで口に放り込む。
カリッ、という小気味よい食感と共に、独特の辛味と、熟成された味噌の芳醇な香りが広がる。アコが漬けるものとは、何かが違う。祖母が使う「麹味噌」特有の、まるでフルーツのような甘い発酵臭。
この味は、この家に来なければ決して味わえない、俺の原風景だ。
「……美味い」
「ふふ、よかった。で? ハルちゃん。おじいちゃんに何か頼み事?」
祖母は俺の向かいに座り、優しく目を細めた。
「うん。友達がさ……おじいちゃんの仕事を見たいって言ってて。少しワカメ業のこと、勉強させて欲しいんだよね」
「へー! お仕事体験? うちの港に来てくれるのかな?」
「いや。そいつはもう継ぐ家が決まっててさ。こっちに来ることはほとんどあり得ない。……でも、本気で勉強したいって言ってるから、それはそれで協力してやりたいんだ。時期外れだし、迷惑かもしれないけど」
「そっかー。でも、おじいちゃんに聞くまでもないかもね。絶対オッケーするし。若い子が興味を持って来てくれるなんて、あの人、飛び上がって喜ぶわよ」
「……そうだね」
祖母は急須からお茶を注ぎながら、ふと真面目なトーンで言った。
「それで? ハルちゃんは? ……どうしたいの?」
湯気が揺れる。
「まだ結構時間はあるんだから、焦らずに決めて欲しいな。おばあちゃんは」
その言葉の裏にある優しさに、俺は胸が詰まりそうになる。
「変わらないよ。……俺は、港を継ぐ」
俺は努めて明るく、即答した。
「んー。でも、おじいちゃんはまだ頑張れると思うんだけどなー」
「おじいちゃんが怪我しちゃったら?」
「あははは! 潰れちゃうわねぇ!」
祖母は快活に笑ったが、俺は笑えなかった。
「いやいや。嫌だよ、俺は。ここを絶対、潰したくないんだ」
「んー。気持ちはわかるけどー……」
「おばあちゃんも、俺が継ぐの嫌だ?」
「嫌じゃないわよ。すんごい嬉しいッ!」
祖母は少女のように頬を緩めた。
「嬉しいんなら。ぜひやらせてよ。俺がおじいちゃんとおばあちゃんの面倒は、一生見てあげるから。安心して?」
「それは嫌よ」
祖母はきっぱりと首を横に振った。
「杏里がいるんだし。ファゼィも毎日来てくれるもん。孫に面倒なんか絶対嫌よ」
母さんと父さんの名前を出して、祖母は悪戯っぽく舌を出した。
「そんなこと言わないでよー! 俺も、おばあちゃんとずっと一緒にいたいんだからぁ!」
「嫌だー。孫に下の世話なんてされたくないー」
「世話って、そこまで先の話してないよ!」
茶の間に笑い声が響く。
すると、廊下の向こうから重たい足音が近づいてきた。
「おー、ハルー。おかえりーッ!」
引き戸が開き、風呂上がりの祖父が顔を出した。タオルで濡れた白髪を拭きながら、その腕に愛犬のミニチュアダックスフンドを抱えている。
「ただいま、じいちゃん。ルルも元気そうだな」
俺が手を伸ばすと、ルルは俺の指先を舐め、嬉しそうに尻尾を振った。風呂の湿った湯気と、石鹸の香りが部屋に流れ込んでくる。
「どした? 明日の準備け?」
「ううん、違うよ。今日は、じいちゃんに相談しに来たんだ」
「相談? ハルが? 珍しいな」
祖父はルルを畳に下ろし、興味深そうに俺の隣に胡座をかいた。
居住まいを正し、國崎との一件――ワカメ漁の体験学習について、ゆっくりと説明を始めた。
説明が一通り終わると、祖父は目尻の深い皺をさらに刻んで、にっこりと笑った。
「國崎んとガキけ。なーん、いいちゃ。いつでもいい」
その口調は、海の男らしく豪快で、それでいて孫の頼みには甘い。富山弁特有の響きに、俺は安堵の息を吐いた。
「ありがとう。俺もできたら一緒に行きたいんだけど、いつがいいかなって思って」
「体験、っちゅうことでいいがけ? ほしたら、明日か明後日はどうけ? わしはいつでも港におるし」
「うん。いいよ。國崎に連絡してみる」
話が早い。こういうところが祖父のいいところだ。




