第28話 隣にいればいい
教室を出て、渡り廊下に出た時だった。
灰色のカーテンを引いたような雨模様の窓辺に、ねむが佇んでいるのが見えた。俺は足を止め、その背中に吸い寄せられるように見惚れてしまった。
硝子窓越しの湿った光が、彼女の輪郭を淡く縁取っている。出会った頃から見慣れた黒髪のボブヘアーは、少しだけ伸びて、華奢な肩にかかる長さになっていた。
かつては柔らかい球体を思わせた頬のラインも、今はすっきりと削ぎ落とされ、顎の先にかけて洗練された曲線を描いている。なんだか、無性に色っぽい。
出会った時の、あの眠たそうな半眼の少女はもういない。
窓の外を見つめるその横顔は、パッチリと開かれた瞳に憂いを帯びていて、暴力的なまでに綺麗だった。
……?
脳内で、記憶と現実が激しく衝突する。俺は慌ててスマホのアルバムを遡った。指先が画面を高速でスワイプし、中学の写真を探り当てる。
そこに写っているのは、寝癖のついた髪でピースをする、幼い「あいつ」だ。
画面と、眼前の彼女を交互に見比べた。
は? だ、誰だ? あいつ……。全然違ぇ……。
もちろん、どう見ても香椎ねむだ。だが、解像度が異常なことになっている。
俺がワカメだの数式だのに現を抜かす間に、こいつはいつの間にこんな変貌を遂げたんだ?
待ってくれ。
あいつ、めちゃくちゃ美人じゃねぇかよッ!!
一人で戦慄していると、視線を感じたのか、ねむがゆっくりと振り返った。
俺と目が合う。窓辺の光を背負った彼女が、ふわりと、柔らかく微笑んだ。
【帰ろ?】
小さく動いた指先。それだけをサインして、ねむは踵を返して歩き出した。
……ねむのこと、どう思ってるか分からない?
俺は昨日の風呂場での言動を思い出し、自分自身の迷いを嘲笑いたくなった。
バカかよ、俺は……こんなの、一目瞭然じゃねぇか。
何も言えず、ガラスに映る自分の前髪を整え、逃げるように歩き出したねむの背中を追った。
廊下には雨音だけが響いている。
しばらく会話もなく、二メートルほど後ろを歩いていると、不意にねむが立ち止まり、勢いよく振り返った。
【おい。隣に来て、私の視界に入らないと会話できないだろ】
鋭い指の動き。俺はハッとして足を止めた。
「あ……すまん」
手話は「見る言語」だ。相手の目を見なければ、声は届かない。俺は小走りで距離を詰め、ねむの左隣――いつもの定位置についた。
「んー。どした? なんか用?」
平静を装って尋ねる。すると、ねむは不満げに唇を尖らせ、パシパシと手話を紡いだ。
【なんだその言い方。用があってもなくても、隣にいればいいんだよ。後ろを歩くな】
「ご、ごめん」
素直に謝ると、ねむは満足げに一つ頷いた。
【よろしい】
それきり会話は途絶え、俺たちは無言のままバスの待合室に辿り着いた。
ベンチに二人並んで腰を下ろす。湿気たコンクリートの匂いと、屋根を叩く雨音。狭い空間に、二人きり。
やばいな……。
いつも、どんな会話をしていただろうか。こんなにも沈黙が重かったか? それとも、もっと下らないことを言い合っていただろうか?
全然思い出せねぇ。
意識し始めた途端、これまでの「日常」の記憶が全部吹っ飛んでしまった。こんな調子で、水族館なんてハードルの高いイベントを消化できるのか?
無理ゲーすぎる。
俺が頭を抱えていると、隣で船を漕ぐような動きが始まった。
いつものように、ウトウトし始めている。コックリ、コックリと頭が揺れ、やがて長い睫毛が重なり、完全に瞳が閉じられた。無防備な寝顔。そこだけは、昔と変わらない。
だが、俺の受け取り方は劇的に変わってしまった。
以前なら「また寝てやがる」と呆れるだけだったその姿を、今は――抱きしめたいと思ってしまっている。
俺はブンブンと何度も首を振った。
くそ……。
ワカメの心配をする前に、俺の頭の方がどうにかなりそうだ。




