第27話 やっぱり、無理だわな
俺はスマホの天気予報を見て、風呂場でのケネスと弟たちの会話を思い出す。
今年のゴールデンウィークは、見事なくらい傘マークが並んでいる。
『弁当忘れても傘忘れるな』
そんな言葉が根付く北陸では珍しくもないが、今の俺には死活問題だった。
高校生。当然、車の免許なんてない。
つまり――これから挑もうとしている、いわゆる「デ、デート」なるものの行き先は、ほぼ屋内に限定される。
くそ……。胃が痛い。
ケンの野郎。また無理難題をぶっ込んできやがった。
あいつは昔からそうだ。思いつきという名の剛速球をいきなり投げてきて、後の処理を全部俺に任せる。
エマが吃音に苦しんでいた頃もそうだった。
「だったら、村のみんなが手話できるようになればいいじゃん」
そんな馬鹿みたいなことを、本気で言い出した。
限界集落ひとつのコミュニケーションを変える?
正気じゃない。
だが、泣いているエマを見てしまった以上、俺も大人も放っておけなかった。
幸い、この村は小さい。当時の住民は俺たちを除けば二十人にも満たず、みんな俺たち兄妹を孫みたいに可愛がってくれていた。
だったら、やりようはある。
俺は父さんと母さん、それにケンの両親にも相談した。大人が四人も味方につけば、話は早い。
集会所や井戸端会議に連れて行ってもらい、爺様婆様たちを少しずつ巻き込んでいった。
「脳トレになりますよ」
大人がそう言って笑うと、みんな面白がってくれた。俺が一人で頼み込んでいたら、こうはならなかったと思う。
最初に覚えてもらったのは、エマの名前だった。
【エ・マ】
そこから挨拶が増えた。おはよう、ありがとう、元気か、飯食ったか。込み入った話になれば、みんなすぐ口に戻る。
それでも、じゅうぶんだった。
三年か、四年か。
今では手話は、この村の「もう一つの伝え方」になっている。
最近では、村の集会場手話サークルを開いてみんな楽しんでいるのだから驚きだ。
分厚いガラス越しでも、騒音の中でも、声が出せなくても言葉は届く。
ケンと俺とねむが、今こうして当たり前みたいに手話で馬鹿話できるのも、あの無茶苦茶な思いつきのおかげだ。
そこだけは、あのデカブツに感謝してやらなくもない。
もっとも、言い出した本人はさっさと覚えて、普及はほとんど俺や大人に丸投げしたのだが。
……いや。
そんな昔話をしている場合じゃない。村ひとつに手話を根付かせることはできた。
なのに。
たった一人の女子を遊びに誘う言葉が、どうしても見つからない。
数式ならいくらでも浮かぶ。
ロトカ=ヴォルテラ方程式? 本当に、そんなもので誘えるのか?
窓の向こうで雨が降っている。
俺はスマホを握ったまま、頭を抱えた。今回は大人の協力も無い。難易度が、違いすぎる。
「お前らー。明日からゴールデンウィークだからって、気を抜くんじゃないぞー。いいかー?五月二日は登校日だ。休みじゃないぞ。分かったなー?」
担任の舟橋先生の声が、気怠げな午後の教室に響く。窓の外はどんよりとした曇天。湿った海風が、硝子窓をガタつかせていた。
「「ええーー!!」」
「文句言うな。今年は仕方ないだろ、暦通りだ。……じゃあみんな、事故には気をつけて楽しんでくれ。解散ー!」
号令と共に、椅子を引く音が乱暴に重なる。解放感に満ちた空気が教室を支配し、クラスメイトたちは蜘蛛の子を散らすように出口へ向かっていく。
その時だ。
「おい、ハル。お前、連休どうすんの?」
不意に声をかけられた。視線を上げると、國崎が机に浅く腰掛け、俺を見下ろしている。
「……普通だよ。何にも変わらねぇ。家の手伝いだ。……多分。國崎は?」
「俺さ……ちょっとだけ頼みたいことあんだけど、いい?」
「めんどくせぇのは嫌だからな?」
「は? めんどくせぇから頼むんだろ」
「却下だ」
「おい。内容聞いてから判断しろって」
國崎は食い下がる。いつものやる気のない態度とは違う妙な熱量。俺は溜息混じりに足を止めた。
「……なに? 言ってみろよ」
國崎は周囲を気にしながら、声を一段低くした。
「あのさ。お前んちの麓の漁港って、ワカメ有名だろ?」
「あ、ああ。そうだな」
「それさ……一回だけ、体験させてくんね?」
耳を疑う。思考が一瞬、停止する。國崎が、労働を、しかも他人の家の漁を体験したいだと?
「は? ワカメの収穫シーズンは三月、四月がピークだ。もう終わるに決まってんだろ。なんなの? 急に」
「そこは聞くな。……でも、一回どんな感じか教えてくれよ。いろんな現場を見てみたいんだ。いいだろ? なんか口実作って、お前の家の爺さんに言ってくれよ。な?」
「……」
國崎の目は真剣だった。罰ゲームや冷やかしではなさそうだ。理由を隠しているのが気になるが、こいつがここまで頭を下げるのも珍しい。
「……いいよ。俺の港に就職する?」
俺は皮肉交じりに承諾した。
「それは無理だな」
國崎は苦笑いで手を振った。こいつの実家も定置網漁だ。継ぐ場所は決まっているのだ。
「ただ、言っておくぞ。日にちによったら俺はそっち(港)に行けねえからな? 俺は農業も畜産もやる事あるんだ。いつでも案内はできない。わかったか?」
「おう。助かるよ」
國崎はホッとしたように表情を緩め、軽く手を挙げて去っていった。
珍しい。あいつがワカメ業なんか経験する意味あるのか? 國崎の家はほとんど定置網と藻場管理がメインだ。ワカメのノウハウなんて、家業には直接関係ないはずだ。
一方、俺の家――芦名家は、多角経営だ。定置網では國崎の親父さんたちと協力するし、冬になれば鰤の網にも乗る。
だが、春だけは話が違う。三月から四月にかけて、この港は海藻の季節になる。ロープに仕込んだ種が一斉に伸び、湾内が深緑に染まる。
定置網は当たれば大きい。養殖のワカメは、それに比べれば作業の見通しを立てやすい。少なくとも春の漁は、実質こいつが支えている。
そして、灰だ。
ワカメの海水を落として少し乾かし、稲わらの灰を表裏にまんべんなく付ける。灰のアルカリが退色を抑え、灰干しにすることで長く保存できる。水で戻せば、鮮やかな緑になる。塩蔵とはまるで別物だ。灰を付けたワカメは、形を整えてまっすぐ干す。乾かして、商品になるところまで仕上げる。
夜明け前の出港。濡れたロープを引き上げる重み。船縁に叩きつけられる海藻の匂い。
そこにいるのは、祖父を筆頭とする七十代後半の老人が三人。
現場を一日通して回せる「若い手足」は、もう俺しかいない。 誰が種を仕込み、どの海域のロープを上げ、どの順で加工して乾燥させるか。その段取りと勘所を把握しているのが、この港では俺と祖父だけだ。もし俺が抜ければ、来年の春は回らない。
ワカメが採れない、という意味じゃない。灰付けから干し上げまで、この港のやり方で仕上げられる人間がいなくなるという意味だ。
國崎は「体験したい」と言った。だがこれは、体験学習なんて生易しいもんじゃない。俺が背負っているのは、一家の手伝いでも、バイトでもない。この港の、春そのものだ。
「やっぱり……無理だわな……」
誰もいない教室で、俺の呟きだけが虚しく響いた。それは國崎への言葉ではなく、数学の道を志そうとする自分自身への、諦めの言葉だった。




