第19話 恋を知ってしまった日
『アラブの王子』
それが、私が彼につけた最初のあだ名だった。嘘じゃないよ? 本気でそう思ったんだから。
あの日。私がまだ中学二年生だった頃のこと。
家族みんなで甘夏狩りに出かけた、四月末の陽射しが優しい日だった。場所は、冰の杜学園のすぐ近くにある海沿いの道路。
トラックが道路に入るのを待つために、ママがブレーキを踏んで車を停めた、その時。目の前に、一人の男の子が歩いてきた。
けだるそ~な顔で、ズボンのポケットに両手を突っ込んで。猫背気味に横断歩道を渡るその姿に、私の目は釘付けになった。
くるくるの天然パーマは、目元が隠れるくらい長くてミステリアス。スラッとした長身で、手足も長い。そして極めつけは、両耳でキラキラ光る金色のピアス。
私だけじゃない。運転席のママも、隣のお兄ちゃんさえも。私たち家族は全員、ポカーンと口を開けて、彼に見惚れてしまっていた。
トラックなんてとっくの昔に走り去っているのに、誰もなんにも言わない。ただガラス越しに、その異国情緒あふれる美少年を凝視していた。
さすがに視線を感じたのか、彼がふと顔を上げた。
私たちと目が合う。
彼は、さっきまでのクールなオーラを霧散させて、めっちゃくちゃ気まずそうな顔で、ペコリと小さく頭を下げた。頭を下げる拍子に前髪が揺れて、黄金色の瞳がチラつく。
そのギャップに、またキュンとしてしまった。
「……ッ、か、母さん! 青! 後ろ来ちゃうよ!」
お兄ちゃんが我に返って叫んで、ようやく車は急発進した。すれ違う一瞬、スローモーションみたいに彼の横顔が見えた。
ほんの数秒の出来事。
だけど、私はその数秒から、まだ抜け出せていない。あの日のことは、一生忘れないと思う。今にして思えば、あれが全ての始まり。
『私』という障がい者が、恋を知ってしまった日。決して叶うことはないって、分かってる。
いつも隣にいてくれる、優しくて不器用な男の子。いつか彼が私の元から離れていって、誰か素敵な人のものになっちゃうことは確定事項だ。
うん。わかってるよ。彼の好みが私じゃないことくらい。痛いほどね。
「――はい。じゃあ今日はここまで!」
私の担任の先生が隣で大きく声をあげる。
チャイムが鳴って、私は教壇の前でピシッと一礼した。生徒たちが「ありがとうございましたー!」って、手話と一緒に元気よく返してくれる。
私、香椎ねむは今、この冰渼ノ江高校でちょっと特別な体験をしています。
なんと、『手話』の体験版特別非常勤講師!
私が入学したのがきっかけで、家庭クラブの活動に手話が追加されました。最初は実験的だったみたいだけど、私の活躍次第ではもっと本格的に授業に組み込まれるかも……なんて話も出てるらしい。
責任重大じゃん?
別に、福祉に手話が絶対必要ってわけじゃない。でも、私にできることがあるなら、ちょっとくらい頑張ってみようかなって。
立ち位置は、そうだなあ……。「日本語は一言も喋れないが、リスニングが超得意な、ネイティブの英語教師」だと思ってくれればいい。
みんなが言ってることは全部聞こえてるし、理解できる。ただ、返す言葉が手話ってだけ。
「【ねむ先生ー! 今日の指文字、覚えたよー!】」
「【ありがとー!】」
廊下を歩けば、みんなが覚えたての手話で話しかけてくれる。嬉しいな。学校内でも、少しずつ手話が広まってる。
でもね。この学校には、別格の「手話使い」たちがいるの。
ハル、ケンちゃん。そして学年一つ下のユウちゃん、エマちゃん。
この四人は、正直言って私より手話が上手い……あ、ごめん、それは盛りすぎたかも! でも、ネイティブの私と喧嘩できるレベルなのは間違いない。彼らがなんでこんなに手話ができるのか。それは……まあ、彼らが優しいからなんだけど。
ただ、そのスキルの使い方が問題なんだよね。授業中とか、全校集会とか。「静かにしなきゃいけない時」に限って、ハルとケンちゃんは手話で悪巧みをする。
【あそこの先生、鼻毛出てる】
【二本出てるな。抜きたい】
【じゃんけんで負けた方が抜きに行くか?】
……くだらなすぎる!
音もなくそんな会話をして、二人で肩を震わせて笑ってるんだもん。それを見てしまった私もつられて笑っちゃうじゃん? 声は出ないけど、顔が引きつっちゃう。
「おい! そこの三人! 何ニヤニヤしてるんだ!」
目ざとい先生に見つかって、ドッカーンと雷が落ちる。はい、三人仲良く職員室行き決定。
本当、バカみたい。高校生にもなって、中坊みたいなことで怒られて。
でもね。幸せなんだ。
廊下に立たされながら、ハルとケンちゃんが懲りずに手話で
【反省文めんどくせー】【今日の昼飯おごれよ】って笑い合ってる。その輪の中に、私も当たり前のようにいられること。
こんな日常が、私は大好き。ハルと一緒の時間。ずっと、ずーっとここに居たいな。 叶わないって分かってても、願っちゃうんだよ。




