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こえあらず ほうに恋ありけり  作者: ぶりかま
四章 数式の海
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第18話 遅れてきた厨二病

 プシュー、というエアブレーキの音と共に扉が開く。潮の香りが微かに車内へ流れ込む中、レオたちは賑やかに席を立った。

 最後に降りようとしていたコタツの肩を掴み、引き留める。そして周囲に聞こえぬよう、その耳元で低く囁いた。


「コタツ。いいか、任務だ。あのクソガキ――アコが変なことを言いふらさないか、徹底的に監視しろ」

「わかった。アコには僕から釘を刺しておくよ。もちろんタオちゃんにも協力してもらう。……ハルくんの秘密は守るから、安心して?」


 コタツは頼もしく頷き、サングラスの奥の瞳で笑った。


「おう。流石は俺の弟だ。頼むぞ」


 俺は感謝を込めて、サングラスのブリッジを指先で軽く押し上げてやった。


「ねー! 何コソコソ話してるのー? 仲間外れー?」


 バスの外から、待ちきれない様子のタオが大きな声を張り上げた。


「タオ、声がでけぇよ! いいからほら、学校行ってこいッ! じゃあなッ! 行ってらっしゃいッ!」

「むーっ! あとでコタツに全部聞いちゃうもーん」

「はいはい、聞いとけ。身体測定の結果、ちゃんと持って帰ってこいよー」

「はーい! 行ってきまーす!」


 手を振る弟妹たちを残し、バスの扉が閉まる。

 エンジンが唸りを上げ、車体は再び走り出した。ここからは、俺たちが通う冰渼ノ江高校への直行ルートだ。

 嵐のような中学生組が去った後、車内にはタイヤが継ぎ目を拾う音だけが残った。 前ではユウが、事情を知らないエマ相手に不自然なくらい明るく喋っている。そして、隣の席のねむは、ジトッとした視線で俺を睨み続けている……。


 (勘弁してくれよ……)


 こういう時、ケネスがいれば助け舟を出してくれるのに。俺は逃げるように席へ深く身を沈めた。


 ……そうだ。フェルマーだ。ワイルズ。数学だ。

 朝の続きを読もう。あの絶対的な真理の世界に逃げ込もう。それで落ち着けるはずだ。違和感はない。俺は震える指でタブレットを開いた。画面をタップする指先が、カタカタと硬質な音を立てる。

 大丈夫だ。読め。文字を追え。

 画面には楕円曲線とL関数の数式が並んでいる。意味を追ううち、ようやく落ち着く。

 難解な数式の海に潜るにつれ、早鐘を打っていた心臓の鼓動がゆっくりと凪いでいく。荒ぶっていた呼吸も、規則正しいリズムを取り戻し始めた。

 隣の席の気配を遮断し、俺は自分の世界に没入――。


 コツ、コツ。

 不意に、ガラスを硬いもので叩く音が響いた。


「こっちを見ろ」という、ねむからの呼び出し信号だ。無視はできない。

 俺は観念して、ゆっくりと顔を上げた。同時に、前の席のユウとエマも、弾かれたようにこちらを振り返る。

 ねむは俺を真っ直ぐに見つめ、ゆっくりと手話を紡いだ。


【私、無視とかされてないよね?】


 その指先の動きを見た瞬間、俺の頭の中から数式が消し飛んだ。


「そんなことするわけねぇだろッ! 俺たちが、お前を無視なんかありえねぇだろ!」


 反射的に、喉から大声が飛び出していた。車内の空気がビリリと震える。


「そ、そうだよッ! ねむを無視なんかありえないッ! ごめんね! ねむ!」

 ユウもまた、悲鳴のような声で必死に否定した。エマだけが「え? 何? どういうこと?」と狼狽えながら、俺たちを交互に見ている。

 俺たちの必死な形相を見たねむは、


【そっか。よかったッ!】


 と、表情を緩め、ふーっと大きく息を吐いて背もたれに体を預けた。

 無視。

 その言葉が、ねむにとってどれほど怖いものか、俺たちは知っている。

 透明人間のように扱われた過去を、俺たちは知っている。

 そんな思いを、たった一瞬でも、させてしまったとしたら。


「ごめん、ねむ。……俺の思春期が暴走して、こんな態度になった」


 俺は真剣な顔で、精一杯の嘘を吐いた。


「中二病だと思ってくれていい。少しだけ俺、頭おかしい日が続くかもしれないけど……見逃してくれない? 全部、俺がおかしいだけだから」


 苦しい言い訳を聞いたねむは、きょとんとした後、ポンと掌に拳を乗せた。なるほど、と合点がいったように何度も頷く。そして、ニヤリと笑って手を動かした。


【いまさら!?】

「そ、そうだよ。い、いまさら……遅れてきたんだよ……」

 力なく返すと、彼女はイタズラっぽく目を輝かせ、流れるような手話で返してきた。

【なんでも言え。ハル。私は一生、厨二病だ。妄想なら手伝うぞ】


 そうだった。こいつは、俺なんか比べものにならないほどの妄想癖を持っている。

 俺は脱力し、そして小さく笑った。

 やっぱり、こいつには敵わない。


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