第18話 遅れてきた厨二病
プシュー、というエアブレーキの音と共に扉が開く。潮の香りが微かに車内へ流れ込む中、レオたちは賑やかに席を立った。
最後に降りようとしていたコタツの肩を掴み、引き留める。そして周囲に聞こえぬよう、その耳元で低く囁いた。
「コタツ。いいか、任務だ。あのクソガキ――アコが変なことを言いふらさないか、徹底的に監視しろ」
「わかった。アコには僕から釘を刺しておくよ。もちろんタオちゃんにも協力してもらう。……ハルくんの秘密は守るから、安心して?」
コタツは頼もしく頷き、サングラスの奥の瞳で笑った。
「おう。流石は俺の弟だ。頼むぞ」
俺は感謝を込めて、サングラスのブリッジを指先で軽く押し上げてやった。
「ねー! 何コソコソ話してるのー? 仲間外れー?」
バスの外から、待ちきれない様子のタオが大きな声を張り上げた。
「タオ、声がでけぇよ! いいからほら、学校行ってこいッ! じゃあなッ! 行ってらっしゃいッ!」
「むーっ! あとでコタツに全部聞いちゃうもーん」
「はいはい、聞いとけ。身体測定の結果、ちゃんと持って帰ってこいよー」
「はーい! 行ってきまーす!」
手を振る弟妹たちを残し、バスの扉が閉まる。
エンジンが唸りを上げ、車体は再び走り出した。ここからは、俺たちが通う冰渼ノ江高校への直行ルートだ。
嵐のような中学生組が去った後、車内にはタイヤが継ぎ目を拾う音だけが残った。 前ではユウが、事情を知らないエマ相手に不自然なくらい明るく喋っている。そして、隣の席のねむは、ジトッとした視線で俺を睨み続けている……。
(勘弁してくれよ……)
こういう時、ケネスがいれば助け舟を出してくれるのに。俺は逃げるように席へ深く身を沈めた。
……そうだ。フェルマーだ。ワイルズ。数学だ。
朝の続きを読もう。あの絶対的な真理の世界に逃げ込もう。それで落ち着けるはずだ。違和感はない。俺は震える指でタブレットを開いた。画面をタップする指先が、カタカタと硬質な音を立てる。
大丈夫だ。読め。文字を追え。
画面には楕円曲線とL関数の数式が並んでいる。意味を追ううち、ようやく落ち着く。
難解な数式の海に潜るにつれ、早鐘を打っていた心臓の鼓動がゆっくりと凪いでいく。荒ぶっていた呼吸も、規則正しいリズムを取り戻し始めた。
隣の席の気配を遮断し、俺は自分の世界に没入――。
コツ、コツ。
不意に、ガラスを硬いもので叩く音が響いた。
「こっちを見ろ」という、ねむからの呼び出し信号だ。無視はできない。
俺は観念して、ゆっくりと顔を上げた。同時に、前の席のユウとエマも、弾かれたようにこちらを振り返る。
ねむは俺を真っ直ぐに見つめ、ゆっくりと手話を紡いだ。
【私、無視とかされてないよね?】
その指先の動きを見た瞬間、俺の頭の中から数式が消し飛んだ。
「そんなことするわけねぇだろッ! 俺たちが、お前を無視なんかありえねぇだろ!」
反射的に、喉から大声が飛び出していた。車内の空気がビリリと震える。
「そ、そうだよッ! ねむを無視なんかありえないッ! ごめんね! ねむ!」
ユウもまた、悲鳴のような声で必死に否定した。エマだけが「え? 何? どういうこと?」と狼狽えながら、俺たちを交互に見ている。
俺たちの必死な形相を見たねむは、
【そっか。よかったッ!】
と、表情を緩め、ふーっと大きく息を吐いて背もたれに体を預けた。
無視。
その言葉が、ねむにとってどれほど怖いものか、俺たちは知っている。
透明人間のように扱われた過去を、俺たちは知っている。
そんな思いを、たった一瞬でも、させてしまったとしたら。
「ごめん、ねむ。……俺の思春期が暴走して、こんな態度になった」
俺は真剣な顔で、精一杯の嘘を吐いた。
「中二病だと思ってくれていい。少しだけ俺、頭おかしい日が続くかもしれないけど……見逃してくれない? 全部、俺がおかしいだけだから」
苦しい言い訳を聞いたねむは、きょとんとした後、ポンと掌に拳を乗せた。なるほど、と合点がいったように何度も頷く。そして、ニヤリと笑って手を動かした。
【いまさら!?】
「そ、そうだよ。い、いまさら……遅れてきたんだよ……」
力なく返すと、彼女はイタズラっぽく目を輝かせ、流れるような手話で返してきた。
【なんでも言え。ハル。私は一生、厨二病だ。妄想なら手伝うぞ】
そうだった。こいつは、俺なんか比べものにならないほどの妄想癖を持っている。
俺は脱力し、そして小さく笑った。
やっぱり、こいつには敵わない。




