第16話 春だねぇ
一時間ほどアップダウンの激しい山道を駆け抜け、俺は自宅の前にあるベンチへ崩れ落ちるようにへたり込んだ。肺が焼けるような感覚の中で、先ほどのレオの言葉がリフレインする。
(尊敬してるか……はぁ、はぁ……)
ありがてぇ。本当にありがてぇけど、どうしようもねぇんだよ。
俺は、お前らがいつでも帰ってこられるこの場所を守りたい。
俺が早く漁業を軌道に乗せれば、あいつらの選択肢だって増やせる。
大丈夫だ。俺ならできる。
思考の海に沈みかけていると、背後で台所口が開く音がした。
「お兄ちゃん、おはよー」
振り返ると、エプロン姿のアコが立っていた。
「アコ、おはよ」
「走り終わったの?」
「うん。……なんか野菜、取ってきてやろうか?」
「じゃあ、そら豆。山盛りで」
俺は重い腰を上げ、マメ科の植物が密集する畑へと足を向けた。その背中に、アコが唐突に言葉を投げつけた。
「三平方の定理」
ピクッ。頭より先に耳が反応する。脳内の回路が、勝手にその美しい響きを拾い上げる。
「な、なんだよ。藪から棒に」
「あれってさー。フェルマーの最終定理でも使う?」
「おうッ! 使うッ! 使うよッ! すげーなアコッ!」
俺の中の何かが弾けた。気がつけば俺は足を止め、アコに詰め寄っていた。
「本当?」
「ああ、基本中の基本だけどな!三以上の自然数 n について、x^n + y^n = z^n を満たす自然数の組が一つも存在しないってことなんだよ!そんでな!」
止められない。言葉が、堰を切ったように溢れ出す。
「一見シンプルに見えるだろ?ピタゴラスの定理の延長みたいでさ。でもな、これが証明されるまでに三百年以上もかかったんだ!多くの数学者が挑んで敗れて、ようやくワイルズが楕円曲線とモジュラー形式を使って証明したんだよ。このドラマがやばくね!?単なる数式じゃなくて、歴史なんだよ!」
息継ぎも忘れてまくし立てる俺を、アコは満足そうに見つめていた。その瞳は、獲物を掌の上で転がすような色を帯びている。
「ふーん。なんか簡単そうに聞こえるけどね」
「そーなんだよッ!超簡単に聞こえるだろ!?そこがフェルマーの悪魔的な魅力なんだよ!でも三百年も答えが出なかったんだぞッ!やばくね!?」
熱弁を振るう俺を見上げ、アコはニヤリと口角を上げた。
「本当……好きだねー。数学」
ハッとした。冷水を浴びせられたように、熱狂が引いていく。
「な、なんだよ……」
「別に?そら豆頼むね。今日のお弁当も山菜でいい?」
「……ふきのとう入れて」
「じゃあ、そこら辺の摘んで一緒に持ってきて」
パタンと扉が閉まる。後に残されたのは、朝の静寂と、自分の単純さに呆然とする俺だけだ。
(……ムカつくな、このガキ)俺は悔し紛れに、足元の土を軽く蹴り上げた。
朝風呂で芯まで温まった体からは、湯気と共に気怠い熱が立ち上っている。
リビングのソファに深く身を沈め、俺はタブレットの冷たい画面を指でなぞった。映し出されているのは、ミレニアム懸賞問題の一つ、BSD予想。フェルマーの最終定理にも関わる楕円曲線の未解決問題だ。
アコが「フェルマー」などと口走ったせいだ。一度火がついた知的好奇心は、理性で蓋をしようとしても煙のように溢れ出してしまう。
背後から、ピアノの音が聴こえてくる。コタツが奏でているのは、グリーグの『朝』。学校の放送で嫌というほど耳にする定番曲だが、彼がピアノで弾くとまるで別の曲のように聴こえる。その音色は朝露のように一粒一粒が丸く、優しく、そして透き通っていた。
俺にとって、この音は毎朝のゼロ点調整のようなものだ。
「お兄ちゃん。先に食べる? ゼンマイと油揚げの煮付け。昨日の夜、コトコト煮ておいたの」
キッチンから顔を出したアコが、小鉢を掲げて微笑んだ。漂ってくる出汁と醤油の甘辛い香りが、数学の世界に飛んでいた俺の意識を現実へと引き戻す。
「マジ? ゼンマイ? 食う食う。今年のだろ?」
「そりゃね。あと、ナムルもあるけど?」
「最高だ。白飯にぶっかけたい」
俺が即答すると、アコは「ククッ」と喉の奥で悪戯っぽく笑った。
「いいや?『春』だねぇ、と思いまして」
どうにも居心地が悪い。
「いいだろ。俺は山菜が好きなんだ。それだけの話だ」
「そうだねぇ。お兄ちゃんは『山菜』が好きだからねぇ。そういうことにしておこうか」
アコは意味ありげに目を細め、炊きたてのご飯を茶碗によそった。
「……それ、今日の弁当にも入れてくれ」
「ウィ・ムッシュ!」




