第15話 朝霧に消える
俺の朝は、世界がまだ紺青の闇に沈んでいる刻限から始まる。
午前四時。鳥さえもまだ微睡む静寂の中、吐く息だけを白く染めて村の外周を走るのが、長年染み付いた俺の日課だ。
「よっしゃっ! 走るゾォッ! 今日は麓まで行っちゃおうかなぁッ!!」
隣で準備運動を始めた弟が、寝ている村中を起こしかねない大声を上げた。レオは幼い頃から、俺の背中を追うようにしてこの早朝ランニングに付き合ってくれている。
「お前、そりゃ走りすぎだろ。ここは標高五百メートルだぞ? 往復で何キロあると思ってるんだ」
呆れて指摘すると、レオは屈託なく笑った。
「はは、大丈夫だよ。それに今日は体育無いし、美術の授業で絵を描かなきゃいけねぇんだ。じっとしてるのなんて、マジで苦行。嫌なことばっかりだよ」
「ストレス解消なら、それが終わった後の放課後だろ、普通は」
「いいや? 最初に一番きついことをやれば、その後の嫌なことなんて屁の突っ張りにもならねぇだろ? だから今日は、県境を越えて能登まで足を伸ばしちゃおうかなー!」
「……朝飯までには帰ってこい。あんまり遠くまで行くなよ? あと」
シューズの紐を締め直しながら、少し声を落とした。
「あと? どしたの?」
「昨日、お前に言われて……少しだけ反省した。悪かったな。変な呪いをかけちまって」
「呪い?」
レオが小首を傾げる。
「自己犠牲、ってやつだよ」
苦笑いと共に告げると、レオはきょとんとした後、ニカっと白い歯を見せて笑い飛ばした。
「あー。そんなの、これっぽっちも思ってねぇから。これからも俺は、兄ちゃんの背中を見て勉強させてもらいやす!尊敬してるよ。最高の兄貴だ」
迷いのない、直球の言葉。それが嬉しくもあり、同時に胸を締め付ける。
「行ってくる!」
レオは俺とは逆方向――麓へ続く急勾配の坂道を転がるように下っていった。俺はその頼もしい背中が朝霧の向こうに消えるまで、じっと見送っていた。
一人になり、再び静寂が訪れる。入念にアキレス腱を伸ばし、自分のペースで走り始めた。
濃い霧が、村全体を柔らかく覆い隠している。眼下に広がる市街地は、今は乳白色の雲海の中に沈んでいる。ここ山頂から見下ろす景色は、いつだって幻想的で、どこか現世から切り離された孤島のようだ。
しばらく走ると、沿道の家々から、年老いた住人たちがヨタヨタと出てくるのが見えた。
「おはよー。ハルくん」
「おはようございますッ!」
すれ違いざま、元気よく挨拶を交わす。だが、集落を一周して二周目に入った時も、また同じ婆様が、初めて会ったような顔で手を振ってきた。
「おはよー。ハルくん」
「……おはようございますッ!」
俺は一度目と変わらぬ笑顔で応える。
はは。さっき会ったことも、もう霧と一緒に消えてしまったのかな。
少しの物悲しさと、変わらぬ温かさ。この「繰り返し」こそが、今のこの村の現状だ。




