第12話 ねむ様の仰せのままに
俺の席は、キッチンの喧騒から最も遠い、宴の末席。
その隣には、芦名家の静かなる来賓――ねむが座っている。湯気が立ち上る大皿を前に、彼女の指先がふわりと動いた。
【タマタマ、大丈夫?】
「ああ。なんとか死守した。……っていうか、飯の前にその単語はやめろ」
【あ、そっか。そうだね】
音のない笑い声を漏らす彼女を見ていると、先ほどまでの騒動で波立っていた俺の脈拍が、不思議と凪いでいく。彼女の紡ぐ手話には、俺の精神を鎮める魔法のような律動があった。
「よぉ~し! みんな、注目――!!」
凛とした声が通り、全員の視線が一点に集まった。ユウが立ち上がり両手を広げている。
「農家の皆さんに感謝! レオも練習お疲れ様。タオ、アコ、コタツ、お掃除ご苦労様。お兄ちゃんも今日はソロクエスト、お疲れ様! そして――今夜の素晴らしい御馳走を作ってくれた、ねむとナナに、最大限の感謝を!」
ユウはいつもこうして、一人ひとりの労働を労う。
「「「いただきまーす!!」」」
八人の唱和が重なり、芦名家の晩餐が幕を開ける。
ナナはユウに酢豚をねだり、レオは白米を掻き込みながらタオの皿へおかずを取り分ける。アコは視力の弱いコタツが肘をぶつけないよう、さりげなく食器の位置を直していた。
一方、俺の隣の世界は静謐だ。ねむの皿の上には、一口サイズよりもさらに細かく、賽の目にカットされたおかずが並んでいる。声帯を持たない彼女にとって、誤嚥は命に関わる事故に繋がる。昼の弁当を時間をかけて咀嚼していたのも、すべては安全な嚥下のためだ。椅子の背もたれには、万が一のためのポータブル吸引機が掛けられている。
けれど、ここ最近、その機械が火を噴くことはない。彼女は誰よりも姿勢を正し、丁寧に食事をする。
俺がそんな彼女の横顔に見惚れながら箸を進めていると、視界の端で指が動いた。
【で? 今日は? 先生になんて言われたの?】
頬を膨らませ、もぐもぐと咀嚼しながら手話で問いかけてくる。
「……まあ。勿体ねぇってよ。俺が漁師になることがさ」
俺は視線を逸らし、揚げ出し豆腐を突いた。
【学力テストは? 三教科合計、いくつだったの?】
「二百六十……くらいだっけな」
ふーん、とねむが目を細める。疑いの色。だが、俺は嘘をついていない。点数は事実だ。
【数学の内訳、言ってみて】
急に、指先の動きから温度が消えた。
「数学七十くらいだっけかな……」
正直に答えた。ねむはゆっくり嚥下を終え、ナプキンで口元を拭うと鋭い手話を突きつけた。
【やっぱり。――なんで、数学が一番低いの?】
息が、一瞬止まった。バレている。
「いや、難しかっ……」
【わざと間違えたでしょ】
俺の言い訳を遮断するように、彼女の手が空を切る。冷や汗がこめかみを伝うのがわかった。
「いや、そんなことねえって!」
【あのさ。私、頑張って百八十点とったの。本当に。本当っに頑張ったんだよ!?】
その瞳が、揺らぐことなく俺を射抜いている。
「す、すげぇな。やっぱりお前は……」
【わざと間違える奴に言われても、嬉しくない。私は、真剣に頑張って試験に挑んでいる人に、『凄い』って言われたい】
その言葉は、鋭利なフォークのように俺の胸深くに突き刺さった。
そうだ。俺は数学の最後の数問、解き方も答えも分かっていたのに、マークシートを塗らずに出した。満点を取ってしまえば、誰かが俺を「あちら側の人間」だと決めつけて、この海から引き剥がそうとする気がしたから。
「……ご、ごめん」
絞り出すように謝罪する。ねむはふぅ、と小さく息を吐き、視線を皿に戻した。
【いいよ。許す。……酢豚取って?】
ご機嫌斜めのねむ様の仰せのままに、俺は動く。
「パ、パイナップル入れるタイプ?」
【入れる。多め】
「はい」
俺は大皿から小皿へと、黄金色の果実と肉を取り分け、彼女の前に置いた。
「どうぞ。ねむ様」
こくりと頷くねむ。だが、箸をつけようとはしない。じっと俺を見つめ、指を動かす。
【細かくして】
「……はい」
俺はねむ専用のナイフとフォークを手に取り、外科医のような慎重さで作業に取り掛かった。弾力のある肉に刃を入れ、彼女が舌で押し潰せるほどの大きさにほぐしていく。パイナップルは果汁が溢れぬよう丁寧に賽の目に。ピーマンも同様だ。
「終わりました」
完璧な仕事だ。皿を押し出すと、ねむが小さく口を開けて待っていた。
「……どゆこと? 運べって? 口に入れろってこと?」
【そうだよ。早くちょーだい】
ドクン、と胸の奥が、ひときわ強く脈打った。
髪を耳にかけ、濡れたような瞳で口を開けて待つ彼女。ランプの光を浴びたその唇が、やけに艶めかしく見えてしまう。
いつの間に、こんな色っぽい顔をするようになったんだ。
俺は震える手でスプーンを握り、肉とパイナップルをバランスよく掬い上げた。
銀色の匙を、彼女の口元へと運ぶ。あと数センチ。
その時だった。
「あーーっ!! ハルくんとねむちゃん、あーんしてるっ!!」
家中の窓ガラスを震わせるようなタオの絶叫。
「ヒュー!! リュウちゃん! 見て単眼鏡使って! 今からお兄ちゃんが歴史的瞬間を迎えるよ!」
「なっ、なんだって! ちょっと待ってねむ、お兄ちゃん! スローモーションで頼むよ!」
アコの指示でコタツが単眼鏡を素早く構え、片目を細めて俺たちをロックオンする。普段は冷静な弟まで、この祭りには全力で乗っかってくる。
このクソガキ共が……!
この光景をタオとアコが高笑いしながら「キース! キース!」とコールする。
ぶっ殺すっ!
羞恥と殺意の中、俺の手元がプルンと揺れた。
「……あれ?」
軽くなったスプーンの先には、もう何も乗っていなかった。俺が弟妹たちに気を取られている一瞬の隙に、標的は消失していた。
目の前には、もぐもぐと口を動かすねむの姿。彼女は満足げに目を細め、どこか勝ち誇ったような上から目線で、呆然とする俺を見下ろしている。完全に、弄ばれた。
「ちょっとーっ! キスはー!」
なおも食い下がるタオに、俺は残った殺気を向けた。
「今度はお前をこちょこちょするぞ。本気で。泣くまで」
「ヒィー! ごめんなさいっ!!」
悲鳴と笑い声が交錯する食卓。妹たちにおちょくられ、ねむだけが静かに、そして美味しそうに、俺が切り分けた愛の形を飲み込んでいた。
こんな時間が、どうしようもなく愛おしい。




