第11話 芦名家、通常運転
風呂場という安息の地を出た瞬間、俺は再び喧騒の渦へと引き戻される。
脱衣所の戸一枚を隔てて、そこにはすでに飽和した「日常」が待っていた。一番下のアコとコタツも、タオと一緒に帰宅しているようだ。
リビングの中央に鎮座する、巨大な一枚板のテーブル。
シーリングランプが、湯気を立てる大皿料理をスポットライトのように照らし出している。
今夜の主役は、猪汁と猪肉の酢豚風。脇を固めるのは、出汁の染みた揚げ出し豆腐、オクラのおひたし、茹でたてのアスパラガスに、彩り豊かなサラダ。そして、土鍋で炊かれた五穀米だ。夜遅くに帰宅する両親の分を含めれば、優に十人前。給食室もかくやというこの物量を、ナナとねむだけで仕切ったのかと思うと、その手腕には畏敬の念すら覚える。
「あ! 兄者! 帰還したか!」
弾むような声で出迎えたのは、末の妹――アコだ。この芦名家において、彼女は一種の特異点である。俺たちきょうだいの中で唯一、今の両親と血が繋がり、正真正銘「芦名」を受け継ぐ子。
今日の昼俺の胃袋を満たしたあの山菜の天ぷらも、彼女の手によるものだ。
「おう。おかえり、アコ」
俺は溢れる愛情を込めて、その小さな頭をワシャワシャと無造作に撫で回した。
アコは嬉しそうに目を細め、子犬のように俺の懐へ飛び込む。……まったく、可愛い妹だ。
そう、油断した瞬間だった。
ガシッ。
下腹部に、鋭角的かつ容赦のない衝撃が走った。
「ぐぉっ……!」
「カッカカッ!! 兄者のタマタマ!とったりぃぃーー!!」
「テメェ……ッ」
「この金色に輝く黄金の双玉! 今宵はこれを飯にかけて食らうとしようぞぉーー!!」
アコは俺の急所を握りしめたまま、空いた手で生卵を二つ、高々と天に掲げている。
しかも力のリミッターが外れているため、純粋に、痛い。
「ぐっ……は……」
俺はその場に膝をつき、大袈裟に床へ突っ伏した。こうして瀕死の演技をしていれば、多少は良心が痛んで戻ってくるはずだ。
案の定、数秒と経たずに気配が近づく。
「あ……ごめんお兄ちゃん。大丈夫? 痛かった? ごめんね?」
先ほどまでの戦国武将のような口調はどこへやら。アコは慌てて標準語に戻り、心配そうに俺の背中をさすり始めた。
――今だ。
俺は一瞬で体勢を反転させ、アコに覆い被さるようにして背後を取った。両手足を完全にロックし、退路を断つ。
「タオ! 処刑だ! 兄ちゃんはさっき殺された、仇を取ってくれ!」
「ウィ・ムッシュ!」
司令を受けるや否や、風呂上がりのタオが嬉々としてアコの脇腹へ魔の手を伸ばす。
「あはははははっ!! やめっ! やめるのじゃーっ! タ、タオちゃん! やめてー!! あははははは!」
リビングに、けたたましい笑い声と断末魔が響き渡る。
別に、今日が特別というわけではない。これが芦名家の通常運転だ。
三つ巴の乱戦が最高潮に達しようとした、その時。
「お兄ちゃん。もうやめてあげて? タオちゃんも」
のたうち回る俺たちを、静かな微笑みで見下ろす少年がいた。
一番下の弟。アコと同い年の小学六年生、コタツだ。本名はリュウだが、芦名の爺様の名が「龍一」であるため、「小さい龍」「小竜」――転じて「コタツ」と呼ばれている。
「……コタツが言うなら、やめてやろうかな」
「りゅうちゃーん! ありがとう! 助けてくれて!」
拘束が緩んだ瞬間、アコはクソガキムーブをかなぐり捨て、可憐な乙女へと変貌した。小走りでコタツの背後に隠れ、上目遣いで助けを求める。
「もう。アコもお兄ちゃんにまた悪戯したんじゃない?」
「ごめんなさい、ハルくん」
コタツに諭されると、アコはしおらしく俺に頭を下げた。
「……次やったら足の裏もやるからな」
まったく、タチが悪い。アコはコタツの前でだけは「女の子」を演じる。
そして、この場の空気を一瞬で鎮めたコタツ。こいつだけが、この家で唯一、俺と似た「まとも」な感性を持っている。
「コタツ。おかえり」
「お兄ちゃん。ただいま」
コタツは穏やかに微笑み、俺を見つめ返した。だが、その外見はこの家でも一際「特別」だ。
彼には、色がない。
透き通るような肌も、細い髪の毛も、眉も、長い睫毛も。彼を構成する要素に、「黒」という色彩は一滴も存在しない。先天性白皮症。
昼間は厳重な日焼け止めなしには陽光の下を歩けず、目を開けることすらままならない。視力も弱く、矯正器具としての眼鏡もあまり効果をなさないため、彼の首にはいつも、細部を見るための単眼鏡がネックレスのように揺れている。
「コタツ。どうだ、肌の調子は」
「うん。最近は調子いいかな!」
「おう。赤みも引いてるな。いい感じだ。風呂上がったら薬塗るから、そのまま寝落ちするなよ」
「うん! わかった!」
嬉しそうに頷く弟の頭を、俺は優しく撫でた。
「よし、飯にしよう」
俺の号令と共に、大皿を囲む準備が始まる




