第3話 願いと不信感と別れ
「いつか一緒に海へと行きたいな。すべての生き物は母なる海から生まれたんだから」
崩壊した世界をさまよう久太は足を止めて、以前千鶴が話していた言葉を思い出す。
ぱしゃっ。ぴしゃっ。
人目もはばからず裸で抱き合う男女が水になったことも、大の字に寝ていた5人ほどの家族が手を繋ぎながら揃って水になったことも気にせず。
そして変わり果てた肉体たちの末路となる綺麗な水が、自身の足元へと目がけて流れてくることも無視して。
「海……。そうだ海へと向かおう。少し遠いけどもう……もういいから」
こうして久太は地面の水たまりを踏みながら、またも歩き始めた。
◇◇◇
久太と千鶴は同じ高校へと進学。
そこでもふたりは、はたから見れば恋人だと思われるような距離感であった。しかし相変わらずそれ以上の関係には進まず。
初めて出会って以降、久太は確かにピュアな恋心を千鶴に抱いていた。
これはまさに『初恋』と呼べるものにふさわしく、だからこそ彼は幸せな時間を過ごしていたのだから。
ところが少しずつ、久太は千鶴に対して不信感を覚えるようになっていた。
きっかけになる明確な出来事があったわけではない。
千鶴の存在がマンネリ化してきたことも絶対にない。
だが久太の胸にできた『つっかえ』は日に日に大きくなっていく。
彼は今まで千鶴との雑談の中で「こうなって欲しい」とか「ああなって欲しい」とかいう願望を何気なく漏らしてきた。
すると……口に出した願いのほとんどが叶ってきたのだ。
もちろん、あまりにも規模が大きかったり現実性に乏しかったりする願いは違う。
たとえば「宝くじが当たって億万長者になりたい」「俳優みたいなカッコイイ顔になりたい」などは叶わない。
久太が千鶴に伝えてきたものはささやかで現実的なものばかり。
「愛染さん、また同じクラスになればいいね」
「新しい担任、野口先生がなってくれたらなあ」
「千鶴、また席が隣同士になったら面白いよね」
そしてこれらのような願いはすべて叶ってきた。
久太もしばらくはこのことを気にしてこなかったが、少しずつながら大人へと近づくにつれて、あまりにも都合がいいことが起きすぎていると感じていた。
さらに彼にとっての気がかりはもうひとつ。
千鶴は絶対に久太を自宅へと呼ばず、家族の姿も見せることをしなかった。千鶴の方から久太の家へと遊びに行ったことは数えきれないほどあるにもかかわらず。
久太がどれだけ頭を下げようと、千鶴は彼が自身の住まいへと近づくことを許さなかった。
一度だけ、帰り際に久太は千鶴と別れた後からその後ろをこっそり追いかけてみたが、途中でバレてしまいその時は唯一と言えるほど烈火のごとく叱られた。
それ以降は同じようなことを決してせず。たとえばインターネットのマップで千鶴の住所を検索することも怖くてできなかった。
千鶴の家族構成については、幼い頃にどうも両親が揃って蒸発してしまい、そのせいで祖母に引き取られたことは知っている。
だがそれ以外の情報は皆無に等しい。
授業参観や教師との面談の機会でも千鶴の親族は現れず、これは彼女の友人たちにとっても疑問だったのだ。
当然ながら久太だって複雑な家庭環境であればむやみに立ち入るべきではないと理解している。
しかし千鶴からの好意に気づいていたからこそ、その想いに応えたいと思っていたからこそ、この点を解消させたかった。
こうして迎えた……今から半年ほど前。
「いつか一緒に海へと行きたいな。すべての生き物は母なる海から生まれたんだから」
「……」
「そうだ! 今度の週末はどうかな? いきなりだけど大丈夫?」
「……」
後ろを振り返り、人懐っこい笑みを見せる千鶴。ところが久太の表情は浮かない。
「あれ? 何かあった?」
これに久太は静かに首を横に振る。
「え、えっと。どうしたのかな? 久太くん……」
「あのさ千鶴」
意を決し、両手を力強く握って久太は口を開く。
「ずっと聞きたいことがあって。僕はその、千鶴のことは好きなんだ。……でも」
緊張もあるのか言葉がまとまらない。
その様子を目にして千鶴も異変を感じ、深刻そうな表情で久太の顔をじっと見つめる。
「何? どうしたの?」
「千鶴はいつも僕の願いを叶えてくれてたよね。ささいなものばかりだけど、たとえばずっと同じ学校で同じクラス。もちろんあり得ないことじゃないけど、珍しいと思う」
「……うん」
「たとえば『担任はあの人がいい』って言えばそれも叶って。たとえば『テストが延期になれば』って言えばこれも叶って。これはその……どういうことなのかな」
久太の前に立つ千鶴。彼女は微動だにせず久太の話を聞く。
「それと……やっぱり家族のことを知りたい。言いたくないこともあるだろうけど、付き合いも長いし。何度も僕の部屋には来てくれたけど千鶴の家は行ったことないから」
それ以降は口ごもって目を伏せる久太。すると千鶴は淡々とした口調で彼に問う。
「そんなに知りたい? 私のこと」
どことなく変わった千鶴の雰囲気。
これを察した久太はうつむいたまま顔を上げることができず、ただ小声で答えることしかできない。
「……う、うん」
「今の私じゃダメ? 味方として満足できない?」
「え? い、いや。味方とかそういう話じゃなくて」
「今の私は久太くんの味方としてふさわしくない? 久太くんは私の味方になってくれない?」
「あ、あのさ。僕はもっと千鶴と仲良くなりたい。千鶴の想いに応えたい。そのために千鶴のこと知りたいんだよ」
乾燥した強い風が吹く中、久太は呟いた。
「味方とかそういうのじゃない。もっと対等で、普通の関係になりたいから」
するとこれに対し千鶴は即座に返答した。
「そっか。分かった。それじゃあ私の役割はここまでだね」
「……え?」
「さようなら久太くん。今まで本当にありがとう。大好きだったよ」
「ちょ、ちょっと! ち、千鶴!?」
千鶴は慌てて顔を上げた久太に背を向け、足早に去っていく。
突然のことに久太は驚き困惑するものの……。
「い、行っちゃった……」
この時、久太は千鶴のことを追いかけなかった。
いきなりだったので体が動かなかった。
追いかけて千鶴の自宅に近づくのを避けたかった。
どうせまた明日には会えるからその際に謝ろうと思った。
いくつかの言い訳があるのだが、それらはじきに『後悔』というひとつの感情に収斂されてしまう。
なぜならこれが両者にとって最後の会話だったからだ。
それから千鶴は音信不通に。電話にも出ず、メッセージの返信もない。
しかも数日後には担任教師から「愛染千鶴は学校を辞めた」ということさえ知らされてしまう。
このことにクラスメートたちは大いに混乱するものの……じきにいつも通りの日常が戻ってきて時間は進んでいく。
しかしたったひとり、久太の心にはポッカリと穴が開いたままだった。
勉強は手につかず、他人との会話はうわの空。その後に行われた学校行事のこともろくに覚えていない。
当たり前のようにそばにいた千鶴。
いつも笑みを向けてくれた千鶴。
思い返してみれば彼女はまるでフィクションにおけるヒロインのような存在で、その人生にとってあまりに都合がよすぎる少女だった。
しかしこれを機に久太は大いに悩むようになる。
「僕は千鶴にとってどんな存在だったのだろうか……」
連絡がつかなくなって、姿を消して、初めて彼は「自分はこれまで千鶴に何かをしてあげられていたか?」と自問自答を繰り返す。
「千鶴と対等になろうとしなかったのは、僕の方なのかもしれない……」
千鶴に不信感を抱いたこと自体は仕方ない。
家族のことだって知りたかったのは事実だ。
だがどうしてあの時、千鶴のことを追わなかったのか。
「僕は千鶴から『受け取って』ばかりで『与える』ことをしてこなかった」
「もしかしたら千鶴だって僕に不信感や不満を抱いていたかもしれない」
頭の中にはこのような負の感情が浮かぶばかりで、さすがに精神が疲弊してきた頃。
毎日のように思い悩む久太のもとには届いた。
「……え」
『孫である愛染千鶴は先日、死去いたしました。生前お世話になった方にこの手紙は送っております。愛染千蔭』
こんな文章が綴られていた、一通の手紙が。




