第2話 愛染千鶴との思い出
身長は少し小さいけれど背筋はいつも伸びていて。
黒くて長い髪は艶があってとても綺麗で。
大きくてパッチリとした二重の目が特徴的で。
「千鶴……」
静かな昼下がり、久太はスマートフォンの画面に表示された愛染千鶴の写真から目を逸らすことができない。
幼馴染である千鶴は死水症が流行する以前に亡くなっている。これは今から少し前、彼女が久太のスマートフォンを操作して自撮りしたものだ。
その時は「千鶴。また勝手に僕のスマホを使わないでよ」と注意したものの、結局これが記録できた最後の千鶴の姿になってしまった。
「はあ……」
久太は大きなため息をついた後、スマートフォンをズボンのポケットに入れ、立ち上がり再び歩き出す。
もちろんここでも目的地など決めておらず思いのまま足が向かう先を目指して。
同時に愛染千鶴との思い出を少しずつたどりながら。
◇◇◇
久太は千鶴との出会いをよく覚えている。それは小学6年生の夏休みだった。
当時久太は両親から難関私立中学校への受験勉強を強制されていたのだが、それが苦痛で仕方がなかった。
そして暑さ厳しいある日曜日、久太はいよいよ精神が限界を迎えて家を飛び出す。
特にあてもなく、しかし「とにかく家から離れたい」と走り続けていたところ、到着したのは誰も寄りつかないようなボロボロの神社。
社殿は汚れ、狛犬はくすんでいて、賽銭箱にはカビが生えている。
久太はその雰囲気が怖くなってすぐに逃げ出そうとしたものの、突然大雨が降ってきたので雨宿りするしかなかった。
しばらく賽銭箱の近くで体育座りをして雨をしのいでいた久太。ただ彼はそこで、履いていた半ズボンのポケットの中に10円硬貨があることに気づく。
「……この神社、神さまいるのかな?」
ふとこう考えた彼は立ち上がり、硬貨を賽銭箱に投げ入れて手を合わせる。
「神さま。僕は秋原久太といいます。お願いですから僕に味方をください。パパとママは厳しくて怖いです」
目を閉じ切実な想いを久太は口にする。
「兄弟もいないし、受験勉強を始めてから遊べなくなって友達も減っちゃったし、僕は寂しいんです」
そのまま社に向けて頭を下げていた久太。
「ねえ。君、ここで何をしてるの?」
するといきなり聞こえてきたのは少女の声。
ただこの辺りにいるのは知り合いの子供ばかりのはずなのだが、これは聞き慣れない人物のものだったので、久太は少し怯えながら振り返った。
「ここは私のおばあちゃんが管理してるお社なんだよ? お参りに来たの?」
そこにいたのは同世代の少女。彼女は傘を持ったまま、首を傾げて不思議そうに問う。
「あ、えっと。その……」
「怖がらなくても大丈夫だよ! そうだ! 少しだけ私とおしゃべりしようよ!」
少女は戸惑う久太に近づきフランクに話をしてくる。
その会話の中で彼女の名前が『愛染千鶴』だということ、さらに『最近ここに引っ越してきたので夏休み明けから同じ小学校に通う』ことを久太は知る。
「そうなんだ! 中学受験しなきゃだから勉強してるんだ!」
「う、うん。でも親がうるさいからしてるだけで本当は嫌なんだ」
「ふーん。兄弟は?」
「い、いないよ。僕は一人っ子だから」
初対面ながらつい家族構成などを明かしてしまった久太だが、千鶴は満面の笑みを浮かべて久太の両手を握る。
「でも大丈夫だよ! 私は久太くんの味方だから!」
「っ! え、えっと!」
もう小学校6年生ということで多感な時期に入っている久太は、女子の手を触れたことに焦り、恥ずかしがり、取り乱してしまつた。
「ふふっ。ねえ、久太くんはどこの中学校に行きたいの? 受験合格したい?」
だが千鶴は狼狽する久太の様子を見て小さな笑い声を上げるだけであり、そのまま彼に尋ねる。
「え、えっと……。本当は地元の公立中に通いたい……かな。近所の友達はそこに行くし、第一志望は家から遠くて通学が大変そうだし……」
この答えを聞いた千鶴は大きくうなずいて「そっか。それじゃあその願いが叶うといいね」と話すと、空に目を向けた。
「ねえ久太くん、もう晴れたよ。そろそろお家に帰った方がいいんじゃない?」
「あ、本当だ! ……親は怒ってるだろうから怖いけど、帰らないとダメだよね」
「うーん。私はそっちの方がいいと思う。いつか帰らないとだしね」
恐らく待ち受けているのは、勉強を投げ出して家出したことに怒った両親からの叱責。
このことを考えると足は重くなるが、帰らない方がもっと問題なことぐらい久太は分かっている。
そこで彼は肩を落としながらも千鶴に「話を聞いてくれてありがとう。また会えるといいね」と伝え、自宅へと戻るため歩き始めた
「あれ? そう言えば僕、あの子に自分の名前って教えたっけ……?」
帰り道。こんな疑問が久太の頭に浮かぶ。
ところが「覚えていないだけでどこかで自己紹介したのかも」と彼はこれを引きずらず、すぐに両親への謝罪の言葉を考えることにシフトしたのだった。
◇◇◇
結局、久太は地元の公立中学校へと進学した。
あの家出で両親は怒っていたものの、意外にも「そんなに受験が嫌ならしなくていい」と伝えられたのだ。
久太はこれに複雑な心境を抱きながら、一応は自分の望み通りになったことに胸をなでおろす。
さらに夏休みを終えると本当に千鶴は小学校に転入してきて、しかも同じクラスの隣の席へとやってきた。
さらにそこを卒業するとふたりは同じ地元の中学校へと通うことになり、そこでもずっと一緒のクラス。
こういうこともあってか、久太にとって小学校6年次の夏休み明けからその人生は大きく変化していくことになった。
特に中学校での3年間はとても充実したものに。
受験勉強のせいで疎遠になっていた近隣の友人たちと関係を修復でき、成績も向上して両親の機嫌も安定してきて、部活動では文化部に所属。
そして最大の理解者である千鶴がいつもそばにいてくれる。
明るく可愛らしい千鶴はよくモテた。
だが先輩・同級生・後輩と関係なく告白されても彼女はそれに応えることはなく。
ただ千鶴にアタックする男子生徒たちは、これが無謀なことだと分かっていた。
愛染千鶴にとって最も大切な人物は秋原久太、どうやってもこの牙城を崩すことは不可能だ。
一般的に見れば「交際している」と思えてしまうほど両者は親密であり、事実教員たちなんかは早いうちから付き合っているものだとすっかり思い込んでいた。
しかし久太と千鶴は恋人同士ではない。
この3年間、どちらかから交際を申し込むということもなかった。
中学3年生にもなるとしびれを切らした周囲が「早く久太の方から告白しろ」「千鶴から言わないともうあれダメだよ」とはやし立てるようになるが……。
中学卒業を迎えてもなお、ふたりは恋人関係にならず。それでも当たり前のように久太と千鶴は同じ高校へと進学する。
進路が異なる友人に至っては「久太! 高校ではきちんと告白しろよ! マジであの子取られちゃうぞ!」と卒業式で真剣に忠告する始末だった。
もちろん久太は千鶴のことが嫌いだったわけではない。むしろ彼女のことが好きだった。
久太は千鶴のことを魅力的だと感じていた。
久太は千鶴と一緒にいると心地よかった。
久太は千鶴が自身に好意があると分かっていた。
「それは分かってる。自分の気持ちも、千鶴の気持ちも分かってるけど……」
だが……だが久太は千鶴にわずかな不信感も抱いていたのだ。
なぜなら彼は千鶴が『普通』ではないことに気づいてしまったから。




