マフィアノート ラッキールチアーノ二話
第2話:師と弟子、そして誓い
ニューヨークの喧騒が遠く泥のように沈む、マンハッタンの一角。禁酒法という巨大な金脈がもたらした狂乱の裏で、二十代半ばのラッキー・ルチアーノは、かつてない知的興奮に身を焦がしていた。
目の前に座る男、ジョニー・トーリオ。シカゴの裏社会を実質的に支配するこの小柄な男は、ルチアーノがそれまで見てきた「マフィア」とは何もかもが違っていた。
当時のニューヨークを支配していたのは、シチリア生まれの古臭い老人(口ひげピート)たちだ。彼らは名誉だの、血統だの、故郷の掟だのといった、近代アメリカでは一文の価値もないカビの生えた概念に固執し、縄張り争いで血を流すことしか脳がなかった。
しかし、トーリオは違う。仕立ての良いスーツを完璧に着こなし、穏やかな口調で語るその姿は、ウォール街の投資銀行家か、あるいは一流大学の教授のようだった。
「チャーリー。暴力はコストだ。それも、もっとも割に合わない最悪のコストだよ」
トーリオは、琥珀色のウイスキーが注がれたグラスを揺らしながら、静かに言った。その瞳には、荒くれ者たちを平伏させる冷徹な知性が宿っている。
「銃を一杯に詰め込んだ車を走らせ、敵の拠点を蜂の巣にする。派手で、映画のようで、若い連中は喜ぶ。だが、その後に何が残る? 優秀な兵隊の死体、警察の執拗な捜査、世間の悪評、そして途絶えた流通ルートだ。ビジネスの観点から言えば、それは完全な赤字なんだよ」
ルチアーノはその言葉を、乾いた砂が水を吸い込むように、脳髄に刻み込んでいった。
「……ビジネスとしてのマフィア」
「そうだ」トーリオは満足そうに頷いた。「我々が扱っているのは、ただの密造酒や賭博じゃない。市場の『需要』だ。政府が法律で酒を禁じたからこそ、そこに巨大な市場が生まれた。ならば我々は、洗練された供給業者でなければならない。経営者がライバル企業の社長をいちいち自らの手で撃ち殺しに行くか? そんな野蛮な真似はしない。交渉し、合併し、市場を分配する。それが現代のやり方だ」
ルチアーノは深く息を吐き出し、自身の内にあった野心が、より明確な形を持って結晶化していくのを感じた。
彼はこれまで、粗暴なボスたちの下で、自らの冷徹な判断力と合理性を「生意気だ」と煙たがられてきた。イタリア系以外のユダヤ系やアイルランド系の優秀な悪党たち――マイヤー・ランスキーやバグジー・シーゲル――と手を組むルチアーノを、旧時代のボスたちは「血の純血を汚す裏切り者」と罵った。
だが、トーリオだけは違った。ルチアーノが持つ、人種に囚われない合理主義と、損得を冷酷に見極める目を「至宝」と称賛したのだ。
「チャーリー、お前の目は素晴らしい」トーリオはルチアーノの肩に手を置いた。「お前は、この泥沼の裏社会を『企業』に変えられる器だ。シチリアの古い因習という足枷を外せば、お前はどこまででも高く飛べる」
「ジョニー……」
二人の間に、言葉を超えた強固な絆が結ばれた瞬間だった。それは単なる利害関係のボスと部下ではない。時代を先取りしすぎた二人の天才が、深い暗闇の中で互いを見出した、世代を超えた友情の始まりだった。
それから数ヶ月の間、ルチアーノはトーリオの影として動き、その経営哲学を文字通り叩き込まれた。
トーリオの講義は、実践的かつ冷酷だった。
密造酒の製造コストの削減、警察署長や政治家への「効率的な」賄賂の分配方法、そして何より、争いを避けるための「合議」の手順。
「いいか、チャーリー。交渉の席に着く前に、勝負は決していなければならない。相手の弱みを握るのではない。相手にとって『戦うよりも、こちらの提案を呑んだ方が儲かる』という数字を提示するんだ。人間、最後は名誉ではなく、財布の厚みで動く」
ルチアーノはトーリオの教えを忠実に実行し、ニューヨークの街で実績を積み上げていった。彼が差配する密造酒ルートは、他のどのファミリーよりもトラブルが少なく、かつ莫大な利益を上げた。ルチアーノの存在感は、裏社会で日に日に増していく。
しかし、二人が躍進すればするほど、古く硬直した組織の歪みが牙を剥き始める。
ニューヨークでは、ジュゼッペ・“ジョー・ザ・ボス”・マッセリアと、サルヴァトーレ・マランツァーノという二人の老頭目が、互いのプライドと縄張りを巡って睨み合いを続けていた。シカゴでもまた、トーリオの合理的な支配を「弱腰」と見なす、血気盛んなアイルランド系ギャングたちが不穏な動きを見せていた。
ある夜、マンハッタンの秘密カジノの奥に位置する、重厚な革張りのソファが並ぶ一室。
トーリオとルチアーノは、煙草の煙が立ち込める中で、静かにワインのグラスを傾けていた。壁の時計が午前二時を回ったことを告げる。
「ジョニー、ニューヨークの老人どもは限界だ」
ルチアーノが、低く、しかし確信に満ちた声で切り出した。
「マッセリアもマランツァーノも、頭の中は百年前のシチリアの農村のままだ。俺たちがユダヤ系のランスキーから仕入れた極上のアルコールを、彼らは『異教徒の汚れた金だ』と吐き捨てながら、裏ではその分け前を貪っている。そのくせ、自分たちのプライドのために、明日にも全面戦争を始めかねない。彼らがトップにいる限り、俺たちのビジネスは常に爆弾を抱えているようなものです」
トーリオは静かに笑み、グラスを置いた。
「シカゴも同じだよ、チャーリー。ダイオン・オバニオンの連中は、話し合いという言葉を知らない。彼らは、銃の引き金を引くことだけが、裏社会での唯一の自己表現だと思い込んでいる」
トーリオは身を乗り出し、ルチアーノの目を真っ直ぐに見つめた。その眼光は、いつになく鋭く、そして熱を帯びていた。
「時代が変わるんだ。そして、我々がその変化を強制しなければならない。チャーリー、お前にその覚悟はあるか?」
ルチアーノの口元が、不敵に歪んだ。
「そのために、俺はあなたの隣にいる」
トーリオは深く頷き、懐から一枚の真っ白な紙を取り出した。そこには、細かな文字でニューヨークとシカゴ、そして全米の主要都市の地図と、それぞれの地域で得られるであろう「推定利益」の数字が整然と並んでいた。
それは、ただの縄張り図ではない。裏社会を一つの巨大な合衆国として再編するための、壮大な「グランドデザイン(基本設計図)」だった。
「これを見ろ」トーリオが指を指す。
「マッセリアを排除し、マランツァーノを抑え、シカゴの反乱分子を黙らせる。その後、我々は『コミッション』を作る。全米のボスが均等な発言権を持ち、流血ではなく投票によって問題を解決する、裏の最高裁判所だ。独裁者は要らない。必要なのは、システムだ」
ルチアーノの胸の鼓動が速くなる。これこそが、自分が求めていたものだ。
ただの街のギャングの親分で終わるのではない。歴史に名を残す、裏の帝国を築き上げる計画。
「これを成し遂げるには、旧時代の亡霊たちを一人残らず葬り去る必要がある」ルチアーノが囁いた。
「そうだ。だが、急いではいけない。果実が熟し、自ら落ちてくるのを待つんだ。彼らが互いに殺し合い、疲れ果てたその瞬間に、我々が新しい秩序として君臨する」
トーリオは、自身のワイングラスを掲げた。ルチアーノもまた、迷うことなく自らのグラスを合わせる。
チリン、と澄んだ美しい音が、密室に響いた。
「誓おう、チャーリー。我々の世代で、この血塗られた裏社会を、誰も触れられない完璧なビジネスへと変革することを」
「ああ、ジョニー。あんたの知性と、俺の力で、必ず新しい時代を創る。俺たちのファミリーを、本物の帝国にしてみせる」
世代を超えた二人の男の、固い師弟の誓い。それは、数年後に全米を震撼させ、そして裏社会の歴史を永遠に変えることになる「ナショナル・クライム・シンジケート」の、真の産声であった。
外では、冷たい夜風がニューヨークの摩天楼を吹き抜けていく。新時代の足音は、確実に、そして静かに忍び寄っていた。




