マフィアノート ラッキールチアーノ三話
第3話:冷たい銃弾
1
一九二五年のシカゴの冬は、吐き出す息さえも凍りつくような冷気に包まれていた。だが、その大気をさらに張り詰めさせていたのは、いつ暴発してもおかしくないギャングたちの縄張り争いが放つ、文字通りの火薬の匂いだった。
「これ以上、アイルランド野郎どもの不躾な越境を許すわけにはいかん」
シカゴ南部を統べるジョニー・トーリオの私邸。その暖炉の前で、トーリオは琥珀色のウイスキーが注がれたグラスを静かに揺らしながら、目の前に立つ若き愛弟子、ラッキー・ルチアーノを見つめていた。その眼差しは、裏社会のボスというよりは、大学の教壇に立つ教授のそれのように冷徹で、理知的だった。
「ジョニー、ニューヨークの連中なら、こういう時は話し合いの席を設ける。だが、シカゴのディオン・オバニオン一派は血の気が多すぎる。彼らにとって、ビジネスの交渉とは銃弾の数を競うことだ」
ルチアーノの言葉に、トーリオは微かに口元を緩めた。
「だからこそ、我々が秩序を教え込んでやらねばならんのだ、チャーリー。暴力は目的ではない。利益を守るための、最後の、そして最もコストのかかる手段に過ぎん。これからの時代は、銃の引き金を引く指ではなく、契約書にサインをするペンが裏社会を支配する。それを忘れるな」
「肝に銘じておくよ、ジョニー」
ルチアーノは深く頷いた。彼にとって、トーリオが語る「ビジネスとしてのマフィア」という哲学は、闇雲に血を流すことしか知らないニューヨークの老ボスたち――マッセリアやマランツァーノ――の旧態依然としたやり方とは一線を画す、未知の輝きを放っていた。二人の間には、単なる組織の上下関係を超えた、強固な師弟の絆と、いつか全米の裏社会を一つの巨大な企業体へと変革するという、密かな野心が共有されていた。
だが、シカゴの夜は、彼らが望むほど理性的ではなかった。
2
数日後の午後、シカゴの通りは薄暗い灰色の雪に覆われていた。トーリオは妻のアンナと共に、日用品の買い物から戻り、自宅の前に車を止めたばかりだった。ルチアーノは別の仕事のため、少し離れたホテルで待機していた。それが、ほんのわずかな運命のエアポケットだった。
トーリオが車のドアを開け、荷物を抱えて歩き出した、その瞬間。
凍てつく沈黙を破って、猛烈なエンジン音が響き渡った。一台の黒いセダンが急ブレーキをかけ、トーリオの目の前に滑り込んできた。車の窓が開き、突き出されたのは、冷たい鉄の銃身――トンプソン・サブマシンガンと、短銃の銃口だった。
「ジョニー・トーリオ!」
怒号と同時に、世界は轟音に包まれた。
激しい銃撃がトーリオの身体を襲った。一発、二発、三発。銃弾が彼の肉体を容赦なく引き裂き、鮮血がシカゴの白い雪をまたたく間に赤く染めていく。トーリオは崩れ落ちた。買い物袋からこぼれ落ちた果物が、血の海を転がっていく。
「あなた! ジョニー!」
アンナの悲鳴が響き渡る中、襲撃犯の一人が車から降り立ち、地面に倒れ伏したトーリオの頭部に向けて、確実に息の根を止めるための最後の一発を放とうと、銃口を向けた。
カチリ。
無情な金属音。弾詰まりだった。あるいは、運命の女神がまだトーリオを見捨てていなかったのか。パトカーのサイレンの音が遠くから聞こえ始め、襲撃犯たちは忌々しげに舌を打ち、車へと飛び乗った。車はタイヤを軋ませながら、雪の街へと消え去った。
後に残されたのは、血の海の中でピクリとも動かない、裏社会の知性と呼ばれた男の、無残な姿だけだった。
3
「ジョニー!」
シカゴの聖母病院の廊下に、ルチアーノの怒号が響いた。普段の冷静沈着な彼からは想像もつかないほど、その表情は鬼気迫るものだった。コートを翻し、執刀医の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで詰め寄る。
「ボスは……ジョニーはどうなんだ!」
「命は取り留めましたが……予断を許さない状況です。弾丸は顎、首、そして腹部に達している。正直に申し上げて、生きているのが奇跡の猛暑です。今夜が峠でしょう」
医師の言葉に、ルチアーノは目眩を覚えた。自身の右腕であるマイヤー・ランスキーが、そっとルチアーノの肩を支える。
「チャーリー、落ち着け。今お前が取り乱せば、シカゴの組織は完全に瓦解する。オバニオンの残党どもは、ジョニーが死んだと思って、今頃祝杯をあげているはずだ。次は俺たちの番だぞ」
ルチアーノは深く息を吐き、目を閉じた。数秒の後、彼が再び目を開けたとき、その瞳からは一切の感情が消え去り、底知れぬ冷徹な光だけが宿っていた。
「……分かっている。すぐにニューヨークとシカゴの全ルートを警戒態勢に入れろ。手出しをする奴は、誰であれ容赦するな」
夜が更け、病院の集中治療室(ICU)の前に、ルチアーノは一人で座り続けていた。ガラスの向こうには、全身を包帯で巻かれ、無数の管に繋がれたトーリオが横たわっている。かつて、エレガントなスーツに身を包み、裏社会の未来を理路整然と語っていた男の面影はどこにもなかった。
ルチアーノは、怒りと、それ以上の無力感に震えていた。
「これが、あなたの言う『ビジネス』の結末なのか、ジョニー……」
どれほど知性を磨き、交渉のテーブルを用意しても、最後は一発の鉛の弾丸がすべてを台無しにする。この暴力の連鎖を断ち切らなければ、自分たちに未来はない。ルチアーノはガラスに手を当て、心の中で呪詛のように、そして誓いのようにその言葉を繰り返した。
4
襲撃から三日目の夜、奇跡的にトーリオが意識を取り戻した。
医師の制止を振り切り、ルチアーノは病室へと入った。部屋の中は、消毒液の匂いと、死の気配が混ざり合った独特の空気が漂っていた。
「ジョニー、俺だ。チャーリーだ」
ベッドに近づき、声をかける。トーリオはゆっくりと、重い瞼を開けた。その目は濁り、かつての鋭さは失われていたが、ルチアーノの姿を捉えると、微かに焦点を結んだ。
「……チャーリー、か……」
包帯の隙間から漏れる声は、かすれていて、今にも消え入りそうだった。
「喋るな、ジョニー。犯人は必ず見つけ出す。オバニオンの連中を一人残らず、シカゴ川の底へ沈めてやる。ニューヨークの兵隊も呼び寄せた。倍にして返してやる」
ルチアーノの言葉に、トーリオは弱々しく首を振った。その動きだけで、激痛が走るのか、彼の顔が苦痛に歪む。
「……いや……それは……私の望むことではない……」
「何だって?」
「報復は……さらなる報復を呼ぶだけだ。それでは……いつまで経っても、我々はただの『人殺しの集団』から脱却できない……。それでは、私が築こうとしたシステムが……灰になる……」
トーリオは残された力を振り絞るようにして、ルチアーノの手を握った。その手は、驚くほど冷たく、そして震えていた。
「チャーリー……私は、もう引き際だ。この身体では、もう前線には立てん。いや……仮に回復したとしても、私の時代は終わったのだ。これからの裏社会には、もっと若く、もっと冷徹で、そして……私よりも強靭なリーダーが必要だ」
「ジョニー、何を言っているんだ。あんたは引退するなんて言っちゃいけない男だ!」
「聞きなさい、チャーリー」
トーリオの瞳に、一瞬だけ、かつての知性の光が戻った。
「シカゴは……アル(カポネ)に任せる。あいつは凶暴だが、街を維持する力はある。だが、ニューヨークは……そして全米の組織を束ねる役割は、お前にしかできない。チャーリー、お前に私のすべてを託す。私の『意志』を、お前が継ぐんだ」
「あなたの意志……」
「暴力ではなく、組織で統治せよ。ボスたちが互いに血を流し合うのではなく、利益を分配し合うシステムを作るんだ。独裁者になるな。システムの創設者になれ。それが……私の果たせなかった夢だ」
トーリオの手の力が、ふっと抜けた。彼は疲れ果てたように目を閉じ、荒い呼吸を繰り返した。それは、一人の偉大な首領が、その王座を降りた瞬間だった。
5
病室を出たルチアーノは、病院の屋上へと向かった。
シカゴの夜景が眼下に広がっていた。ネオンの光が雪に反射し、美しく、そして冷酷に街を照らしている。この街のどこかで、アル・カポネがすでに報復の銃撃戦を始めているかもしれない。そしてニューヨークでは、マッセリアたちが自分を操り人形にしようと手ぐすねを引いて待っている。
ルチアーノは、ポケットから煙草を取り出し、ライターで火をつけた。紫煙が風に流され、夜空へと消えていく。
「システム、か」
彼は呟いた。
ジョニー・トーリオという男は、裏社会に知性という名の防弾チョッキを着せようとした。だが、それだけでは足りなかったのだ。法を欺き、ライバルを圧倒し、真の秩序を築くためには、知性だけでなく、圧倒的な「権力」と、それを遂行するための「冷徹な覚悟」が必要だ。
ルチアーノは、暗闇の向こうにあるニューヨークの空を見据えた。
「ジョニー。あんたの夢は、俺が完成させる。そのためなら、俺は悪魔にでも、ビジネスマンにでもなってやる」
師から受け継いだ重すぎる遺産と、胸に燃え盛る冷たい野心。ルチアーノは煙草を地面に落とし、靴の先で踏み消した。
旧時代マフィアの終焉へのカウントダウンは、このシカゴの冷たい銃弾によって、静かに、だが確実に始まったのである。若きルチアーノは今、裏社会の頂点へと続く、血塗られた階段を一歩、上り始めた。




