マフィアノート ラッキールチアーノ一話
第1部:血の洗礼と新たな師弟
第1話:シカゴからの男
1
一九二〇年一月十六日。その日、アメリカ合衆国から「美徳」という名の劇薬によって、一切の合法的な酒が消え失せた。
憲法修正第十八条、いわゆる禁酒法の施行である。
世間の道徳家たちはこれで犯罪のない清らかな社会が訪れると歓喜したが、ニューヨークの薄暗い路地裏で生きる若きラッキー・ルチアーノ――本名サルヴァトーレ・ルガニア――にとって、それは神が与えてくれた史上最大のビジネスチャンスに他ならなかった。
「なぁ、サル。本当にやるのか? 相手はあのシカゴの怪物だぞ」
マンハッタン、ロウアー・イースト・サイドのうらぶれたダイナー。
安物のコーヒーから立ち上る湯気の向こうで、相棒のマイヤー・ランスキーが細い指で眼鏡のブリッジを押し上げながら、冷静な、しかしどこか警告を孕んだ声を震わせた。ユダヤ系のランスキーは、ルチアーノにとって最も信頼できる「頭脳」だった。
「ビビるなよ、マイヤー。時代が変わるんだ」
ルチアーノは上等なウールのコートに身を包み、まだ二十代前半とは思えないほど冷徹で、野心に満ちた鋭い眼光を爛々と輝かせていた。シチリア生まれの彼は、旧時代のマフィアが尊ぶ「名誉」や「血の掟」といったカビの生えた概念を、心の底から軽蔑していた。これからの時代を支配するのは、暴力の大きさではない。誰が最も効率的に金を稼ぎ、システムを構築できるかだ。
「マッセリアの親父は、他所の人間を信用しねえ。特にシカゴの連中とは、いつでも戦争ができるように銃を磨いておけってうるさい。だが、それじゃあビジネスはスケールしねえんだ。これからは、国中の酒をブレンドして、効率よく流通させるネットワークが必要なんだよ」
ルチアーノが言っている「シカゴの連中」とは、当時、中西部の暗黒街を急速に塗り替えつつあった大物、ジョニー・トーリオのことだった。トーリオは、ニューヨークからシカゴへと拠点を移し、地元のボスであるビッグ・ジム・コロシモの懐刀として、その冷徹な知性と組織力で頭角を現していた。
今夜、そのトーリオが密かにニューヨークへ戻り、ルチアーノと接触することになっていた。ニューヨークの支配者であるジュゼッペ・「ジョー・ザ・ボス」・マッセリアの目を盗んでの、極秘の会談だった。
「場所は?」
「リトル・イタリーの裏にある仕立て屋だ。案内人は俺一人で行く」
「危険すぎる。マッセリアの耳に入ったら、お前は明日にはイースト川に浮かぶことになるぞ」
「その時は、お前が俺の葬式でいいスピーチをしてくれよ、マイヤー」
ルチアーノは不敵に微笑むと、コインをテーブルに放り出し、席を立った。外は、凍りつくような冬の夜風が吹き荒れていた。
2
リトル・イタリーの片隅にある、古びた紳士服の仕立て屋。
営業時間をとうに過ぎ、薄暗い店内には、ラシャの匂いとミシン油の香りが充満していた。店の奥の鉄扉を叩くと、中から屈強な大男が顔を出した。男はルチアーノの身体を執拗にボディチェックし、武器を持っていないことを確認すると、無言で顎をしゃくった。
奥の部屋には、贅沢なペルシャ絨毯が敷かれ、煙草の煙が紫色の層をなして漂っていた。
部屋の中央、重厚なマホガニーのデスクに座っていたのが、ジョニー・トーリオだった。
ルチアーノは一瞬、拍子抜けしそうになった。
シカゴの裏社会を牛耳る男と聞いて、マッセリアのような、太った身体に安物の宝石をちりばめ、常に大声を張り上げる粗野な男を想像していたからだ。
しかし、目の前にいるトーリオは、仕立ての良いスリーピースのスーツを完璧に着こなし、髪を几帳面に撫でつけ、まるで銀行の頭取か一流の弁護士のような、極めて洗練された佇まいをしていた。その瞳は穏やかでありながら、底知れない深みと冷徹さを湛えている。
「座りなさい、サルヴァトーレ」
トーリオの声は低く、そして驚くほど穏やかだった。
「お前の噂はシカゴまで届いているよ。マッセリアの足元で、ユダヤ系やアイルランド系の若者を集めて、独自の流通網を作ろうとしている、生意気で優秀なガキがいるとな」
「光栄です、ミスター・トーリオ」
ルチアーノは椅子に腰掛け、真っ直ぐにその男を見据えた。
「ですが、僕が作ろうとしているのは、ただの流通網じゃありません。これからの禁酒法時代を生き抜くための、完璧な『企業』です」
トーリオは、手元に置かれたクリスタルグラスのスコッチを軽く揺らした。密造酒ではない、本物のスコットランド産の最高級品だ。
「企業、か。マフィア(ファミリー)ではなく、企業と言い切るか。面白い。だが、ニューヨークの老いぼれたち……マッセリアも、あるいはマランツァーノも、そんな言葉は理解せんよ。彼らにとって裏社会とは、故郷シチリアの狭い村の掟をそのまま持ち込んだ、血と復讐の果てしない殺し合いの場に過ぎん」
「だからこそ、あなたに会いたかった」
ルチアーノは身を乗り出した。
「僕たちは、彼らのような『古い人間』とは違う。暴力は手段であって、目的じゃない。これからの時代、本当の権力は、どれだけ多くの敵を殺したかではなく、どれだけ多くの人間と『交渉』し、組織をコントロールできるかで決まるはずだ。あなたのシカゴでのやり方を拝見して、確信しました。あなたこそが、僕の目指すべき姿だ、と」
トーリオは、ルチアーノの言葉をじっと静かに聴いていた。その鋭い観察眼は、若者の瞳の奥にある、単なる若気の至りではない、冷徹な計算と果てしない野心を見抜いていた。
「サルヴァトーレ。暴力はコストだ」
トーリオは静かに語り始めた。
「弾丸一発、人間の命一つを奪うのにも、警察への賄賂、ライバルからの報復、縄張りの不安定化という莫大なコストがかかる。最高のビジネスとは、敵に銃を向けることなく、握手をして互いの利益を分け合うことだ。平和こそが、最も利益を生むのだよ」
その言葉は、ルチアーノの脳髄を激しく揺さぶった。
これまで誰も教えてくれなかった、裏社会の本質。マッセリアは「舐められたら殺せ」としか言わなかった。だが、このシカゴから来た男は、「いかに殺さずに支配するか」を説いている。ルチアーノの胸の中に、これまでに感じたことのない強烈な憧れと、知性に対する敬意が湧き上がっていた。
3
その時だった。
仕立て屋の表通りから、突如として激しい車のブレーキ音が響き渡った。
「――っ!?」
ルチアーノの野生の勘が、即座に危険を察知した。
次の瞬間、店の正面ガラスが凄まじい音を立てて砕け散り、闇夜を切り裂くようなトンプソン・サブマシンガンの爆音が炸裂した。
「伏せろ!」
ルチアーノは叫びながら、デスクの向こうのトーリオを目がけて飛び込んだ。二人は重厚なマホガニーのデスクの陰に転がり込む。
続けざまに放たれる無数の銃弾が、壁の棚を粉砕し、仕立て途中の高級な生地をズタズタに引き裂いていく。部屋の外にいたトーリオのボディーガードが応戦する銃声が聞こえたが、それもすぐに、圧倒的な火力の前に悲鳴へと変わった。
「マッセリアの追手か!?」
ルチアーノは懐からコルト・リボルバーを引き抜きながら毒づいた。情報が漏れていたのだ。いや、あるいはシカゴのトーリオの政敵が、この機会を狙って暗殺チームを送り込んできたのか。
銃撃の嵐の中、デスクの影で、トーリオは驚くほど冷静だった。
彼は自身の服の乱れを軽く直すと、ポケットから小型のピストルを取り出し、ルチアーノを見た。
「サルヴァトーレ、表の退路は断たれた。この部屋の床下に、かつて地下鉄道として使われていた隠し通路がある。そこから隣の通りのパン屋の地下へ抜けられる」
「案内してください。俺が殿を務めます」
ルチアーノの目に躊躇はなかった。今ここでトーリオを死なせるわけにはいかない。この男の頭脳は、これからのアメリカの裏社会に絶対に必要なものだ。そして何より、自分自身がこの男からもっと多くを学びたいと、強く渇望していた。
トーリオはペルシャ絨毯を引っ剥がし、床の隠し扉を持ち上げた。暗い穴が口を開けている。
その時、部屋の扉が乱暴に蹴り開けられた。ショットガンを手にしたトレンチコートの男が、銃口をこちらに向けて踏み込んでくる。
「死ね、トーリオ――!」
男が引き金に指をかけた瞬間、それよりも僅かに早く、ルチアーノの銃口から炎が噴き出した。
乾いた銃声が二発。
弾丸は正確に男の胸を撃ち抜き、男は崩れ落ちるように床に倒れ込んだ。ルチアーノは眉ひとつ動かさず、男の生死を確かめることもなく、トーリオに向き直った。
「行きましょう、ボス」
トーリオはルチアーノの冷徹な、そして一瞬の狂いもない判断力を凝視し、小さく頷いた。
「……見事な腕だ、サル」
二人は地下の暗闇へと飛び込み、背後で再び激しくなった銃声を置き去りにして、ニューヨークの地下深くへと消えていった。
4
翌朝、夜明け前のハドソン川を見下ろす高台に、一台の黒いキャデラックが停まっていた。
朝靄の中に浮かぶマンハッタンの摩天楼は、まるで冷酷な巨大な墓標のようにも見えた。
車外に出て、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込むトーリオの横に、ルチアーノが静かに並んだ。二人の衣服は泥と硝煙で汚れていたが、その表情には奇妙な充実感が漂っていた。
「命を救われたな、サルヴァトーレ。お前がいなければ、私は今頃あの仕立て屋の床で冷たくなっていた」
トーリオは、遠くを見つめながら静かに言った。
「お互い様です。あなたの知恵がなければ、俺もあのまま蜂の巣にされていました」
ルチアーノはポケットから煙草を取り出し、マッチで火をつけた。紫煙が風に流されていく。
トーリオはルチアーノに向き直り、その肩にそっと手を置いた。
「ニューヨークのマッセリアも、シカゴの私の身内も、皆、目の前の金と血に目が眩んでいる。だが、昨日お前と話し、確信した。お前こそが、私の哲学を理解し、このアメリカの裏社会を次の次元へと導くことのできる唯一の男だ」
トーリオの言葉には、深い確信がこもっていた。
「サル、私はシカゴへ戻る。だが、これは終わりではない。始まりだ。お前はニューヨークで力を蓄えろ。私はシカゴで地盤を完璧なものにする。そして時が来れば、二人でこの国の悪の歴史を、根底から書き換える組織を作る。どうだ?」
ルチアーノは、トーリオの差し出された右手を見つめた。
その手は、多くの血を吸ってきた裏社会の頂点に立つ者の手でありながら、恐ろしいほどの知性と未来へのビジョンを宿していた。
「喜んで、ジョニー」
ルチアーノはその手を、強く、固く握りしめた。
それは、単なるマフィアの同盟ではなかった。旧時代を葬り去り、裏社会を巨大なビジネス帝国へと変貌させるための、世代を超えた「知の師弟」の誓いだった。
一九二〇年、禁酒法の幕開け。
シカゴからの男との出会いによって、ラッキー・ルチアーノの、そしてアメリカ暗黑街の運命の歯車が、今、凄まじい音を立てて回り始めたのである。




