国境地帯①
ジスラール国の関所を抜けるとアルエスタ国との緩衝地帯となる黒い森がある。
アンジェルが乗った馬車は国の外に出るまでにいくつかの関所を抜けた。その都度、御者が役人に金を掴ませて潜り抜け、黒い森に差しかかろうとしていた。
乗り心地の悪い簡素な馬車に乗ったアンジェルは安堵の息を吐いて、その後唇を噛み締めた。
なぜ自分がこんなにも惨めに亡命などしなければならないのか。あの時も今も、あの憎い従兄弟のせいで。
許さない。
肩にかけたショールを握りしめて馬車の揺れに耐えていると、馬車が急に止まった。
「何事なの? 様子を見てきてちょうだい。」
「は、はい。」
侍女が扉に手をかけるより前に扉が開き、「出てくるように」と男の声がした。
確かランベールが緩衝地帯で馬車を変えろと言っていたと思い、ゆっくりと馬車を降りて視線を上げると、数メートル先に黒髪の男が立っていて、驚愕のあまり後退り背中がドンと馬車にぶつかった。
「お久しぶりでございます。アンジェル殿下。」
「ジョスラン……?」
ジョスランはぞくっとするほど冷たい目でアンジェルを見下ろした。
「あなたをアルエスタに行かせるわけにはいかないのです。」
アンジェルは姿勢を正し、まっすぐにジョスランを見た。心の中は混乱しているが、王妹としてのプライドが震える足をその場に留めていた。
「お前ごときがわたくしに命令できるはずもないでしょう。」
アンジェルがドレスを翻し馬車に乗ろうとしたところを男が二人、馬車の扉の前で剣を交差させた。
「無礼者! 王妹たるわたくしに対しそのような暴挙が許されるとでも!?」
「残念ながら、あなたはもう王妹ではないのです。」
背後から低い声が響く。
「ローランド国王は廃され、イーヴ・リオネルが即位することが決定されました。」
「なん……ですって?」
「あなたの身柄は拘束され、ジスラールへ送還。裁判にかけられます。」
「うそよ……、なぜ?」
「それは裁判で明らかになりますよ。」
ジョスランが手を挙げると部下たちがアンジェルの手首を背後で縛った。
「わ、わたくしは……。」
アンジェルは血の気の引いた白い顔でジョスランを見た。
「お前は……。」
ジョスランは眉を顰めてアンジェルを見た。
「お前はなぜわたくしを三度も拒絶したの。なぜ……?」
一度目は婚約を拒否され、二度目はルノヴァン宮殿での舞踏会で自分には目もくれず、シリル監獄では明確に拒絶された。
アンジェルは舞踏会の夜、ジョスランに恋をした。
ローランドは貶めていたが、美しく力のある目をした男性。彼ならばアンジェルの全てを許し、大きく包み込んでくれそうな予感がした。
なのに大切に扱われているのはラウリーヌだった。
本当ならば自分の婚約者であったのに。あの眼差しを受けるのは自分であったのに。
子爵家の娘ごときは彼に相応しくない。
なのにジョスランは視線で言葉でアンジェルを拒絶した。
ならば自分のものにしてしまおう。自分の手で消してしまえばいい。
そうすれば永遠に他人の手には渡らない。
彼を傷つけている時、彼は自分だけを見ていた。その目に冷たさしかなくても、その視線はアンジェルにまっすぐ向けていた。
あの暗くじめじめした地下牢が二人だけの世界に感じられるほどに、アンジェルは満たされた。
しかしそれでも、最後までジョスランを手に入れることはできなかった。
ジョスランが処刑された後、満足するどころか大きな喪失感が襲った。そんな経験をするのは初めてだった。
してはならぬことをしたという後悔。とめどなく流れ落ちる涙。
目の前にある婚姻の準備に邁進することで自分を保つしかできなかった。
アンジェルにとっての悲劇は、その感情がなんなのかが分からず言葉と態度に出す術も知らなかったことだ。
目の前に焦がれるほど愛する男が生きて立っている。それは歓喜と苦しみをアンジェルに与える。
美しいシルクサテンのドレス姿で草の上にがくりと膝をつき、子供のように泣いているアンジェルを見下ろすジョスランは、言い表しようのない心地でいた。
この幼い魂を持つ一人の娘に必要なのは、優しく抱きしめる腕と頭や背中を撫でる大きな手なのだろう。ジョスランがそうすることによって彼女は救われるのかもしれない。
だが。
アンジェルは罪を犯し、そのせいでラウリーヌとジョスランは苦しんだ。
彼女の嗜虐的な嗜好のために苦しんだ人間は他にもたくさん存在する。
どのような結果になるかわからないが、罪を自覚してほしい。
「連れて行け。」
背を向けると、背後から絶叫のようにジョスランの名を呼ぶアンジェルの声が黒い森に響いた。




