嫉妬の炎(2)
☆
なんだか妙なことになった、とユーリは思っていた。完璧に負けたかと思ったのに、思いがけず残れることになったのだ。クリスティーナとルピナス、司祭はすでに大聖堂を出ており、騎士たちとイグニスだけが残されていた。
イグニスはバルドーをちら、と見て、
「あのタヌキ親父、多少は使えますね」
「どういうこと?」
「司祭ではなく、聖女に是非を問うたでしょう。あの女は猫を被っているから、たとえ内心どうであろうと、頷くしかできなかった」
「味方してくれた、ってこと?」
「まあそう言えます」
お礼しなきゃ。ユーリはバルドーに駆け寄り、声をかける。
「あの、ありがとうございます、バルドーさま」
「ん? 何がかな」
「味方をしてくださって」
バルドーは目を細め、ユーリの頭に手を置いた。
「気にしなくていい。これからも思う存分カラカラして、私を楽しませてくれ」
「へ?」
「あー、この人別に善意であんたの味方してるワケじゃないと思うぜ」
カイはそう言って、それより、とユーリに目をやる。端正な顔立ちに親しみやすい笑みをにじませ、
「こうして見ると、案外可愛いな、あんた」
「え?」
「気をつけろ、カイはこう見えて女に手が早い」
バルドーの言葉に、カイは澄まして答える。
「そんなことないですよ? お友達から始めて、段々仲良くなって、しまいには裸で寝るようになるだけで」
後半、イグニスに耳を塞がれたせいでまったく聞こえなかった。
「イグニス、なんで耳」
「お子様には早い」
「過保護な聖霊だなあ」
気さくな騎士たち二人のそば、一人沈黙しているリカルドを、ユーリはちら、と見る。
「リカルドさ」
リカルドはユーリを無視し、バルドーに声をかけた。
「私は、訓練に戻ります」
そうして大聖堂を出て行く。俯いたユーリを、イグニスが覗きこんだ。
「なにをしょぼくれているのです」
「リカルドさんに嫌われてるなあ、って」
「あんな駄犬に嫌われたところで、痛くもかゆくもないでしょうに」
「駄犬って」
「確かに忠犬めいているな、聖女に忠誠を誓っている」
バルドーはニヤつきながら言った。
「そんなにいいんですかね、俺、可愛い系が好みだけど、一度お相手してもらおっかなあ」
「いやいや、あの二人、まだだろうな。リカルドは純情だから、誘われても乗らんのだよ」
イグニスにまた耳を塞がれ、なんの話だか聞き取れない。
「もう行きましょう、騎士こそが真の悪徳だ」
イグニスに手を引かれ、ユーリは歩き出す。振り向きざまに頭を下げたら、騎士たちも愛想よく手を振り返した。
「騎士さまたち、好い人たちだね」
「どこがですか、この節穴聖女」
イグニスは憮然としながらユーリの額をデコピンした。
「いた」
むぎゅむぎゅと、両手で頰を挟まれる。
「いたいよ、イグニス」
「燃やしたかった、あの薄毛。聖女に溶かされた脳を焼きたかった」
「仕方ないよ、私がなんにも知らなかったから悪いんだし」
「たしかに」
イグニスが眉をしかめた。
「なぜ三大欲求も知らないのです」
「だって、ごはんと寝るのと、もう一つが、せ、せい……」
ユーリはかあっと赤くなる。
「私、ないし、そんなの」
「……お子様とは言え、何も知らないでは困りますね」
「え、あ」
イグニスはユーリを抱き上げ、通路から死角になる階段脇の壁に押しつけた。
「い、ぐにす?」
「あなたにもあるはず」
大きな掌に首筋を撫でられ、ユーリはびくりとした。
「ちょ、イグニス、ん」
こないだのように、唇が首筋に埋まる。イグニスの手が、ゆっくり首筋から胸元へと向かう。ユーリはびくりとして、イグニスの手を掴んだ。彼はその手を絡めとり、指先に唇を這わす。赤い舌が指の間をすべり、ユーリの全身が震えた。
なに、これ。
「からだが、痺れませんか?」
イグニスの手が腰を撫でる。ちゅ、と指先を吸い、濡れた指をかざした。なんだか、やらしい。
「あ、だめ」
手が動いて、ユーリの腰を引き寄せた。身体が密着して、頭の奥が熱くなる。
なに、わからない。わからないけど、なんだか変だ。
「イグニス、伏せ、ふ、せ」
「顔が赤い。耳も」
「あ、噛む、のだめ」
耳たぶを噛まれ、指先でなぞられ、だんだん変になる。なんで言霊が効かないんだろう。ユーリはイグニスにしがみついて、吐息を漏らした。イグニスはユーリの瞳を覗きこんだ。
「なんです? そのいやらしい顔は。子供のくせに」
「イグニスが、さわるから、だもん」
「わかりましたか?」
「な、にを?」
「三つ目の欲について」
「わ、わかんないよ、なんかやらしいってことだけしか」
「それだけわかればよろしい」
イグニスはそう言って、ユーリの紅潮した頰を撫でた。
「イグニス……?」
「美味そうだが、お子様ですしね」
「なに?」
「我慢、してあげましょう。だから頭を撫でなさい」
我慢ってなんのことだろうか。
「上からワンコめ……」
ユーリはイグニスの頭を撫でた。彼は気持ちよさそうに目を細めている。やっぱりわんこだから、撫でられるのが好きなのかな。
「お手! いでで」
手をぎゅうぎゅう握られ、ユーリは涙目になる。
「痛い」
「調子に乗るな」
気難しいなあ。──でもなんかわかってきたかも、イグニスのこと。きっと、憎まれ口は私のためなんだ。
「あ、ねえイグニス。お菓子を焼いてあげようか」
「お菓子?」
「うん。私得意なんだ、クッキー焼くの」
「あなたに得意なことがあるのですか?」
「あるよ! ひどいよ!」
仕方ないから食べてあげましょう、と尊大なわんこは言い放つ。
「ほんと、偉そうなんだもんなあ……」
ユーリはぶつぶつ言いながら歩き出す。ふと、イグニスが立ち止まり、辺りを見回しているのに気づいた。赤い瞳が、少し鋭くなっている。
「イグニス? どうかしたの?」
「……いえ、なんでもありません」
彼はそう言って、ユーリの後ろに続く。
二人が去った階段に、ふ、と人影が落ちる。
人影は侍女服の裾を握りしめ、さっと姿を消した。
ユーリが厨房に向かうと、立ち働いていた侍女たちが一斉にこちらを向いた。その視線はユーリからイグニスに向かい、一気に熱をこめたものになる。イグニスはどうでもよさげにユーリの髪をいじっていた。料理長の男が寄ってくる。
「どうかしましたか」
「厨房を貸してほしいの。隅っこでいいから」
「ええ、いいですよ、どうぞ」
ありがとう、と言い、ユーリは財料を揃える。ボウルに小麦粉、砂糖、牛乳、バターをいれて混ぜ合わせ、さっくりと混ぜる。それを台に置き、綿棒で伸ばして、型をとった。
「あとは焼くだけだよ」
「そうですか」
イグニスはといえば、まだユーリの髪をいじっている。
「ねえ、私の髪に何かついてる?」
「退屈だから触っている」
退屈って。
「あ、そうだイグニス、炎でクッキー焼ける?」
「そんなくだらないことに能力を使いたくありません」
「えー、いいじゃない」
ユーリはイグニスの袖を引く。
「お願い、ね?」
赤い瞳がちら、とこちらを見た。
「……仕方のない聖女ですね」
イグニスはクッキーに手のひらを向け、炎を出した。クッキーはこんがりと焼けているように見える。ユーリは一枚手に取り、割ってみた。中まで火が通っている。ユーリははしゃぐ。
「わ! 焼けてるよ。すごい!」
「火が通っていないと困るでしょう」
「はい、イグニス。味見して」
ユーリはイグニスに、クッキーを差し出した。イグニスはなぜか身を引く。
「……結構」
「なんで? イグニスのために焼いたのに。あーんして」
「人前で何を言うんですか、このハムスターめ」
「ハムスターじゃないよ! むぐ」
イグニスはユーリの口にクッキーを詰め込んでくる。──うう、窒息してしまう。
「むぐぐ」
と、声がかけられた。
「あのー」
振り向くと、料理長がこちらを見ていた。
「すいません。出来たならそとでやってくれますか……」
なぜかひどく疲れた顔をしている。女の料理人たちも、邪魔そうな目でこちらを見ていた。
「あ、すいません、片付けますね」
「いや、いいですから」
厨房から追い出されたユーリは、クッキーを手に自室へ戻る。侍女のミーシャとすれ違った。
「あ、ミーシャ」
声をかけたら、こちらに視線が向く。やけに無表情で、ミーシャは答えた。
「はい、なんでしょう」
「これからクッキー食べようと思って。一緒にどう?」
「はい、ではお茶を淹れて参ります。お部屋でお待ちください」
「え、そういうことじゃなくて……」
ユーリが言い終える前に、ミーシャはさっさと歩いていく。しょんぼりするユーリに、イグニスが声をかけた。
「ユーリ?」
「……ミーシャ、なんか冷たい」
「女の友情とは儚いのでしょう。急な手のひら返しと陰口を繰り返し、表面上は仲良くしつつ、実際は相手を下に見ている」
「……どこから得た知識?」
「ユーリには私がいるのだから、人間などどうでもいいでしょう」
「うぐ」
イグニスに肩を引き寄せられ、わしゃわしゃ髪をかき回された。ユーリは乱された髪を治しながら、
「イグニスは、友達いる?」
炎の聖霊は鼻を鳴らした。
「必要ありませんね」
「仲間は? ルピナスは?」
「あれはただの聖霊。しかも「できそこない」だ」
「で、きそこない?」
イグニスはええ、と言って、辺りを見回した。赤い瞳が、いつもより鋭くみえる。
「部屋へ行きましょう」
促され、ユーリは歩き出す。自室に着くと、イグニスは戸口に立ち、外の様子を伺った。
「どうしたの?」
「さっき、誰かに見られている気がしたのです。……で、先ほどの話ですが」
「うん」
ユーリが身を乗り出したら、イグニスが近づいてきた。獣型に変幻し、ぼす、と膝に頭を埋める。
「撫でなさい」
頭を撫でたら、嬉しそうに尻尾を振る。イグニスって尊大だけど、性質は完全にわんこだよね……。
「ルピナスは表情が無いでしょう」
「うん」
「あれは、『影』が欠落しているからなのです」
「影……?」
それって、教会が滅ぼすべきだって言ってるものじゃ……。
「聖霊は『影』と呼ばれる自我のようなものを持つ。召喚される際、その『影』が本体から離れたのだと思います。だからルピナスは人形のように主体性がなく、偽の聖女に従う」
「……影がなくなると、どうなるの?」
「影は一人歩きし、暴走を始める。それこそ、あなた方の言う「悪徳」になり、人間に害をなす」
ユーリは息を飲んだ。
「た、大変じゃない、それ、ほっといていいの?」
「人間には害でしょう。しかし私にとってはどうでもいいこと」
「イグニス、冷たい」
イグニスが鼻を鳴らした。
「私は炎の聖霊だ。気に入らぬものは焼き尽くす。オロカモノをわざわざ助けるほど親切ではない」
「じゃあ、私は?」
ユーリはイグニスの顔を覗き込んだ。
「私が危ない目にあっても、助けてくれないの?」
赤い瞳がこちらを見た。その瞳をむず痒そうに歪めて、
「……子供のくせに随分籠絡するのがうまい」
「籠絡?」
「仕方がない。何か災厄が起きた際、あなただけは特別に助けて差し上げましょう。他は知りません」
「そんなこと言わないでよ〜」
ユーリはイグニスの頰をむにむに潰した。
「やめなひゃい」
「嫌なら影を捕まえる方法、教えてよ」
イグニスは顔をしかめたまま、
「……やはり、正しい聖女が聖霊を従えることでは」
「クリスティーナ様からルピナスを奪えってこと?」
ユーリは眉を下げた。
「そんなの無理だよ、あんなに懐いてるのに」
「懐いているという言い方はどうなのでしょうね……」
イグニスは呆れたように言い、
「正直、体で釣っているとしか思えませんが」
「そ、その言い方はなんかやらしいよ……」
「やらしい意味ですから。聖霊は人間の元、求めるものは近いのです」
「イグニス、わんこなのに言うことが過激だよ」
「わんこではない。何度言えばわかるのですか。あなたの脳みそは海綿体か?」
首筋を甘噛みされ、ユーリはくすくす笑った。
「やだ、くすぐったい。やっぱり行動がわんこだよ」
ずし、と重みがかかる。顔をあげたら、イグニスが人型になっていた。
「!」
ユーリは真っ赤になって、イグニスの肩を押す。
「な、なんでいきなり人型に!?」
「気になっていたのだが」
イグニスは不機嫌そうにユーリを見下ろし、
「この姿と獣の姿では、あなたの態度が違う」
「だ、だって……男の人とわんこじゃ、そりゃ違うよ」
「犬ではないと言っているのに」
再び首筋を甘噛みされ、ユーリはびくりとした。
「っ」
「あなたも、少しは私の欲求を理解したらどうです?」
「ちゃんと、撫でてる、のに」
「いいえ、もっと深い欲求です」
深い、欲求?
「以前、三位一体の話をしましたね」
「うん。魂結でしょ?」
「いやらしい意味ではないが、私とあなたは、魂の部分で深く繋がる必要がある」
イグニスがユーリの指に指先を絡めた。
「深く、繋がるってどうやって」
「こうして、あなたと身体をふれあい、互いに高め合う」
「高め、あう?」
なんかやっぱり、やらしい気がする。ユーリは顔を赤らめた。
「なにを想像しているんです?」
「し、してない!」
「しているんでしょう。頰が赤い」
イグニスはユーリの頰を舐めた。「ん」
「私はあなたに触れると胸が暖かくなる。あなたはどうですか?」
「わ、たしも」
ユーリはもぞ、と身体を動かした。イグニスは口元を緩めて、ユーリの腕を撫でた。ユーリも手を伸ばし、イグニスの背中を撫でる。互いに身体を撫であう。イグニスの髪、さらさら。
──触りっこ、だ。これが高め合う、ってことなのかな。
なんか、気持ちいい。ユーリはぼんやりイグニスを見つめた。赤い瞳が近づいてくる。きれいな、目だなあ。
唇が触れあおうとした瞬間、ノックの音がした。
「!」
ユーリはハッとして、慌ててイグニスを押しのけた。イグニスがごろん、と布団に転がった。
「は、はい!」
慌てて起き上がり、扉を開ける。ミーシャが無表情で立っていた。頭を下げ、
「お待たせいたしました」
「ううん! ナイスタイミング!」
ユーリは真っ赤な顔で言った。イグニスは不機嫌に身を起こしている。黒髪が乱れ、赤い瞳がじっとりとこちらを見ていた。
「ほらイグニス、クッキー食べようよ」
「結構」
イグニスはふい、と顔をそむけ、こちらに背を向けて寝転がった。──あ、ふて寝した。わかりやすいなあ。ユーリは肩をすくめ、ミーシャに笑いかける。
「ミーシャも食べようよ」
「私は仕事がありますから」
ミーシャはそう言って身を引く。
「そう言わずに。ほら、クッキー。イグニスが炎で焼いてくれたんだ」
ユーリがクッキーを差し出すと、ミーシャがじっと見下ろしてくる。次の瞬間、クッキーが床に散らばった。ミーシャが手で跳ね除けたのだ。ユーリは目を見開いてミーシャを見上げた。
「ミーシャ?」
「あんたが聖女? 笑わせないでよ」
ミーシャの瞳は憎悪に燃えていた。
「クリスティーナ様の邪魔をして何がしたいの。早く城から出て行きなさいよ」
「……」
ユーリはしゃがみこみ、クッキーを拾った。
「ちょっと、聞いてるわけ」
ミーシャがユーリの足を踏みつけようとした時、一瞬でミーシャの視界が覆われた。
「!」
「足を動かしたら顔を焼く」
イグニスは淡々と告げた。それがかえって恐ろしく聞こえる。ミーシャは喉を震わせた。ユーリはクッキーを拾いながら、小さな声で言う。
「やめて、イグニス」
「オロカモノは痛い目を見なければわからない」
「伏せ」
イグニスの頭が自然に下がる。ユーリはミーシャに笑顔を向けた。
「ごめんね、仕事中引き止めて」
ミーシャは唇を震わせ、エプロンを握りしめた。そのまま、足早に去っていく。
イグニスは不機嫌にユーリを見下ろした。
「なぜ止めたのです」
「イグニスが悪い子だと思われちゃうから」
「どうせ『悪徳』です」
「そんなことないよ」
ユーリは首を振った。
「イグニスはいい子。ただ、自分に嘘がつけないだけ」
「人間は、嘘をつくのがうまい。大罪の中にないのが疑わしいほどに。平気で他者を欺き、蹴落とす。だから私は、人間を信用しない」
「だけどイグニスは、ここが嫌いじゃないでしょう? 燃やさなかったもんね」
「……あなたが燃やすなと言ったから」
イグニスはユーリの側にしゃがみ、落ちていたクッキーを齧った。
「あ、それ、落ちたのだよ」
「ふん、死にはしない」
さして美味そうでもなく、イグニスはクッキーをかじる。
「美味しい?」
「普通です」
「紅茶飲もっか」
「待ちなさい、毒が入っているかもしれない」
「ミーシャはそんなことしないよ」
炎の聖霊は呆れた目を向けてきた。
「あなたは……先ほど受けた仕打ちも忘れたのですか」
「え? なんだっけ」
「トリ頭が」
「あっ、そういうこと言う? トリは賢いんだからね」
「同類でかばい合いか」
ユーリはイグニスと他愛ない話をしながら、お茶を楽しんだ。
★
ミーシャは厨房に向かって歩いていた。
「っ……」
ずきん、と頭が痛み、呻く。額を押さえ、壁にもたれた。ひどく頭が痛んで、苦しい。辛い。いったい何故だろう……。ユーリの聖女姿を見てから、ひどく気分が悪くなった。自分の心が、どす黒く染まっていくのが感じられた。ミーシャは息を吐きながら、天井を見上げた。
ユーリは同僚だ。歳が近いこともあって侍女たちの中で一番仲が良くて、休みの日には一緒に買い物に行ったり、縫い物をしたり……なのにどうして。美しく着飾ったユーリを、美しい青年を従えたユーリを、魅力ある騎士たちに構われるユーリを見ると耐えられなくなる。
どす黒い気持ちを押さえようとするほどに、心が叫んでいる。「ユーリを憎め」と。
だめだ、こんな気持ちを抱いては。ミーシャは首を振り、首から下げた十字架を握りしめた。
心をきよめなければ。
──抑える必要はない。
急に視界が暗くなり、ミーシャは息を飲んだ。ざわざわと、何かが身体にまとわりついている。
「っなに……」
ミーシャは震えた。なんだこれは、悪霊か。叫ぼうとした、ミーシャの口に、黒いものが入り込んでくる。
「!」
──私は影だ……。
影? なんなのそれは。私の中に入ってこないで。
──怖がらなくていい、君の持つ痛みは人ならば全員が持ちうるもの。その感情は、「嫉妬」。
嫉妬? ああそうか、ミーシャは、ユーリに嫉妬しているのか。黒いものは、ミーシャの心を読み取るったかのように言葉をつむぐ。
──自分より下だと思っていた人間が、上に立った。憎しみを覚えて当然だ。
違う、という思いと、そうだ、という思い。二つがせめぎ合い、ミーシャの心をかき乱す。
──耐えなくてもいい、本能のままに振る舞え。
その言葉についで、激しい痛みが額に走る。
あまりの痛みに、ミーシャは額を押さえた。ゆっくり手を離した額には、「envy」という文字が浮き出ていた。




