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Love bomb B


挿絵(By みてみん)


 [Timeline:十一月一日 午後12時過ぎ 場所 貧民街]


 強烈な二日酔いの頭痛の中で目を開けた。


 ミンヒョクが向かったのは歓楽街。負け犬の街の物価は安い、粗悪品だが簡単に酔える店でたらふく飯を食って酒を飲んだ。それから女を買った。安宿で女に金を渡して欲望の全てを叶えようと奮闘したが、深酒は彼の機能を奪う。目が覚めたとき女の姿はなく、宿代を除く全ての紙幣はなくなっていた。

 乱れたシーツの上で、頭を振りながら体を起こす。女の顔も名前も覚えていないが満ち足りた気分だ。数ヶ月ぶりの人間の生活を噛み締めながら、バスルームに向かう。酔い覚ましにはいい温度、なかなか温まらない湯を顔に浴びていたら、ふとあの夜の事を思い出した。


 惨めな毎日、奴隷のような生活、反乱と、激痛と冷たい川の水。


 満ち足りた瞳に暗いものが蘇って、ミンヒョクは上げていた顎を下げた。暗い瞳のまま濡れたリノリウムの床を睨みつけ彼は自分に言い聞かす。


 それは過去だ。過去の事だ。か細い声で二度呟いてシャワーを止めた。温まり出した湯を惜しみもせす脱衣所へと歩いた彼は、右腕で清潔なタオルを手に取った。最初に整った顔を拭いた。それから引き締まった肉体。左の胸を拭った時、違和感がタオルに引っかかる。鏡と向き合い、確認をした。指先でそれを突いてみる。左胸の皮膚を貫いて頭を出していたのは水色の鉱石だった。なんだ?と今度は先を親指で擦った。痛みはない。皮膚が擦れて更に血が滲んだ。左の鎖骨の下あたりに手のひらサイズの石が、まるで肉体に埋め込まれたようそこにあった。顔を顰めてタオルでその石の頭を叩く。きっとこいつもあの夜、自分の体に取り憑いたんだ。


 忘れよう。衣類に腕を通す。少し匂いの残るジャケットを羽織る。下着も替え時だ、なんてことを考える。忘れていいのだ、何故ならば自分には金を稼ぐ手段があるからだ。


 ピンクチラシ。


 何がどうなったのかわからないが、ピンクチラシには値がついている。でなければ昨日の夜の説明がつかない。これは恐らく自分だけが知っている情報で、他の誰かは気がついていない。幸い、自分の行動範囲にピンクチラシはいくらもである。兎に角今日はもう仕事をしない。仕事というものがあるのならそれはゴミひろいだ。ピンクチラシを集めて換金すること。それが今日のミンヒョクに課されたミッションである。


 頭痛はあるが晴れやかな気分で宿の鍵を手に取った。きっと今日の夜も泊まる事になるだろうから、なんて楽観的な考えが足取りを浮き足だったものに変えていた。


 宿を出て最初に向かったのは酒場だ。この街にたどり着いた時に世話になっていたが、今は前を通る事もしない。何故ならツケが溜まってしまっている。最初の一回は、外国人だからという好意だったろう。それに甘えてズルズルとタダ飯を食らって一週間、ついには店の親父の堪忍袋の尾が切れた。怒号と共に叩き出され、それからは一回も顔を出していない。


 けれども今、ミンヒョクの手の中にはピンクチラシがあるのである。これを見せればあの親父だって、鬼から菩薩へ早替わりだ。金というものは恐ろしい。人間を悪魔から天使にだって変えてしまう。通りに貼ってあったチラシを鼻歌気分でむしりとり、軽い足取りで店の前にたどり着いた。流石にドヤ街だけあって、既に酔っ払っている路上生活者が何人か、店の前で倒れている。強い酒を出す店だったな、となんだが懐かしく思い返しながら、アジア風の意匠を凝らした木製の扉を押し開けた。


 らっしゃい!と威勢のいい声はミンヒョクを見つけた瞬間に尻すぼみになった。ハゲ頭でガタイのいい、ただし隠し切れない情の深さをその皺に刻んだ親父の目が鋭くなる。その鋭い視線だって何かしらの愛情なのだろう。伝わってくるから、ミンヒョクは口を結んで親父に小さく会釈をした。


「何しにきた。おめえにだす飯はねえぞ。俺の飯を食いてえならツケを綺麗に払ってからだ」


 低く通る声でフライパンを振りながらそう吐き捨てた親父は、遠くで呼びかけられた酒の注文にはあいよ!と機嫌よく答える。一度失った信用を取り戻すのは難しい。だが今日は違う。不誠実だって金によって精算できるのだ。


「今日はツケを払いに来たんだ。俺にも飯をくれよ。やっぱりあんたが作る飯がこの街じゃ一番美味いんだ」


 フライパンを振る手を止めて、厨房内のバイトに目配せした親父はエプロン姿のままホールへと歩いてくる。背は低いが中々の威圧感、腕組みをして口をへの字に結んだままミンヒョクの前に仁王立ちした。


「おめえみてえなシャバ僧が金を作ってくるとはな。汚え金なら受け取らねえぞ」


「本当さ、ほら」


 そう言いつつ、ポケットから取り出したピンクチラシを一枚、親父に見せた。親父は暫くそのピンクチラシを見つめた後、ため息をつきながら顔を振る。そして店の暗がりに控えていた一人の不気味な男に声をかけた。


「情けねえ話だ。情をかけた人間がヤク中になっちまった。先生、こいつを叩き出してくれ。こいつは少し痛い目を見なきゃなおらねえ」


 暗がりにいた男は立ち上がる。線は細いが背が高い。全身に影を背負った、なんだかカウボーイみたいな格好だ。カウボーイよろしく腰には銃が下がっていたし、細いと思っていた肉体には硬く引き締まった筋肉に覆われている。目を向いて入り口に走り出しかけたミンヒョクの襟首が持ち上げられた。まるで猫だ。足は空を掻いたし、腕は用心棒に届かない。必死で背中に手を回そうと抵抗続けたが、用心棒にとってそれは脅威ではないようだ。体は裏口へと引きずられていき、扉が開いたと同時に生ゴミの中に投げ飛ばされた。どうにか足は地面についたが、背中には砂煉瓦の硬い衝撃が伝わってきた。


 逃げようと思った。


 無理だ、何が何だかわからないけれども失敗した。逃げる以外に方法がない。走り出そうとした体がまた後方に引っ張られる。振り返りかけた目の端に用心棒のグローブ、金属片が埋め込まれている握り込まれた拳が映った。観念し目を閉じた瞬間、頬が砕ける音がした。それからは頭を抱えた。腹を守るために体を小さく折りたたんだ。新羅の国で父親に殴られている時、人生を変えようと上手い話に飛びついて国外に連れ出されリンチをされた時、その時にも有効だった。頭と顔、内臓を守る。亀みたいに体を小さくしてただ暴力が過ぎるのを待つ。長くて寂しくて苦しい時間。でも死ぬよりマシだ。死。冷たい川の水、もがき苦しむ自分の上に降ってくる死体。死ぬよりは。


 何故だがピンクチラシを手放せなかった。そいつはまるで溺れる人間が掴む藁の様なものだったのだろう。何かを掴んでいないと、意識までも手放してしまいそうになる。痛みに対抗する微かな、微かな抵抗。その微かな抵抗を歓迎するように、ミンヒョクの左胸が青白く発光し始めた。揺らされる薄暗い視界の中でミンヒョクの目は逃避するようピンクチラシを見つめている。これが一万紙幣だったらなあ。俺はきっとこいつに殴られず、親父も俺を認めたんだろうなあ。これが一万だったら。これが。ミンヒョクの絶望に呼応する様に、青白い光がピンクチラシを覆い始めた。


 最後に一発、うずくまったミンヒョクの腹を蹴り上げた男は、ミンヒョクに背を向け先ずは大きく息を吐いた。簡単な仕事ではあるが労働、労働をこなした後の一服は格別だ。震えるばかりのミンヒョクの肉体を眺めながらタバコに火をつける。最近はタバコも値上がりして気軽に吸うこともままならない。用心棒が燻らす煙の様に微細しているミンヒョクが、痛みに耐えながら小さな声を出した、ミンヒョクの手の中には握りしめられたピンクチラシがある。笑った女の顔がくしゃくしゃに歪められている。そのゴミを差し出しながら、ミンヒョクは用心棒にこう言ったのだ。


「・・・なあ、あんた。あんたにはこれが、なんに見える?」


 咥えたばこを口から外して、用心棒の男は食い入るようにそのピンクチラシを見つめた。青く発光するピンクチラシは今まさに〝価値を書き換えられて〟いる。用心棒の男にはそれが、当たり前のように見える。そこに地面があるように当たり前な事。水が高くから低くに流れるように当然の事。そのピンクチラシは、一万ミスカルの価値のある紙切れとして、用心棒の目の前に立ち現れる。


『イノベーション・デストラクション』をお読みいただき、ありがとうございます。

本日は第1話~第3話を一挙公開しています。

ここから先は【隔日21:10】更新予定です。

貧困から這い上がろうとするミンヒョクと、彼を取り巻くギランの人間たちの行く末を、最後まで見届けていただければ幸いです。

感想・評価・ブックマークも歓迎しております。

次回、第4話【10月21日 21:10】更新予定です。

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