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Love bomb A


挿絵(By みてみん)


 [Timeline・・・十月三十一日、とある貧民街にて ]


 金がない。


 虚ろな目で見下ろした財布の底にはゴミが溜まっていた。その隙間に隠れるようにコインが10枚。それが彼、姜 敏革(カン・ミンヒョク)の全財産だ。


 一日仕事をしたはずだった。港での慣れない重労働。重い荷物を肩に担いで、早朝から日が暮れるまでノンストップで働く。日銭の500ミスカルは経費を引かれて100ミスカルになった。400のピンハネなんて犯罪だと彼は思うが、仕方がない。仕事がないのである。正確には自分のような身元のはっきりしていない人間でも就労できる職業が、そのくらいしか残っていない。何よりここは彼の母国ではないからだ。


 ギラン。ここは夢の国だという。世界の商売人達が一堂に集まる一発逆転、一攫千金の砂の城。けれども幸運の女神は全員には微笑まない。ここは夢破れた者達がそれでも飽くなき欲望を抱えたまま黄金を眺めて生きるスラム街の一つだ。その証拠がここからでも見える。裏寂れたダイナーの窓からでもギラン中心部に聳えるメノークタワーの、激しい黄金色の明かりが、ゴミだらけの通りを微かに照らしている。黄金の光は胸を焦がす。それはそのまま羨望になる。メノークタワーを見上げたミンヒョクの頬を店のネオンサインが青く塗り替える。次に下品なピンクに切り替わったネオンの向こう、錆色を混ぜ込んだ深い暗闇の奥で、誰かの叫び声が聞こえた気がした。この街には汚辱があり、暴力がある。関わらないに越したことはないから、ミンヒョクは視線をテーブルに落とした。目の前には冷えてきたコーヒーが一杯、そして安い油で揚げられたまずいポテトが一つ置かれている。これで30ミスカル。残りの70は宿代に残さなくてはならない。


 金がない。


 綺麗に金を使い切って、また朝から港に行く。同じ事が繰り返される。うんざりだと思う。思えば同じ間違いをずっと繰り返してきた。自分をこっぴどく振った女を見返すための、そして見栄の為の整形、ギャンブル、それから犯罪。


 全て自分が悪い。自分の責任だとわかっている。でもそれだけではないだろう、と他責もしたくなる。なぜこうなった?どうすればよかった?左腕の義手が根本から痛んだ。痛みすらも彼に言う、お前が悪いんだろう。彼の唯一の財産である義手を売っぱらう事も考えた。だがこの異国で片腕をなくす事がどういう事か。パスポートもない、流れ者の片腕のない人間がこの場所でどういう扱いを受けるか。火を見るより明らかだ。


 痛みが酷くなってきた。

 これも彼の悩みの種だ。あの夜、彼にとっては思い出したくもないあの夜、片腕を切り裂かれたあの夜から、左胸が酷く痛む時がある。そいつは心臓に呼応するように痛み、やがて消えていく。今日の痛みは少し弱い。さっさと寝てしまうに限る。起きていれば金を使うし、誘惑も増える。コーヒーを飲み干してポテトを黄色のジャンパーのポケットの中に突っ込んで席を立った。


「チェック」


 レジ前に立ってキッチンに向かって呼びかける。しかし店長が出てこない。このダイナーの店長は2メートルを超す巨漢、殆どモンスターのような風貌をしている。そして無表情で無愛想、それでもこの店が潰れずに存在しているのは、ここがある種の安全地帯でもあるからだ。体の大きさは威圧感に、無愛想さは不気味に映る。だから街の荒くれがこの店でだけ暴れない。


「ヘイ!」


 少し大きな声でもう一度キッチンに呼びかけた。同時に、決して開かないだろうと思われていた、店の扉が開いてベルが鳴った。乱暴な足音を響かせて店に入ってきたのは四人の男達。ミンヒョクは内心で舌打ちをする。そうして幸運に感謝した。絡まれる前に退散できたのはいいことだ。ランニングシャツから色付きのタトゥーを覗かせた金髪の男が、ミンヒョクの背後を通り過ぎる。その後タバコを咥えた短髪。ガタイがいい。そしてその後ろにいる背の高い鋭い目をした男が彼の背にぶつかった。体を揺らされて嫌な気分にはなったが、彼らとは目を合わせなかった。医療費なんて払える状態じゃない。健康に暮らさなきゃ、最後は魚の餌になっちまう。そんな事を考えていると、キッチンの奥から店長が、猫背に背を屈めながら顔を覗かせた。相変わらず無愛想だ。安心して言った。


「チェック」


 小うるさそうにこちらを睨んだ店長は、30と無感情に呟いた。右手でポケットを探る。突っ込んだポテトがボソボソと崩れている。しかし財布がない。左手で探った。出てきたのは女の裸がプリントされたピンクチラシだ。ない。喉の奥が緊張で冷えた。ジーンズの臀部を確認する。ない。左、右、自分の肉体にあるだろう小さな収納場所を両手で確認した。やはり、財布がない。長財布である。見失うわけがない。先ほど座っていた席に落としたのか、と店長に愛想笑いをしつつ席を確認する。やはり、そこには何もない。一つだけ思い当たるとすれば。視線を奥の席に落ち着けた四人の男達に向ける。背の高い鋭い目をした男がこれみよがしに、ミンヒョクの財布を我が物のように物色していた。


 スられた。


 どうする。冷や汗が頬を伝う。奥の席に座った乱暴な男たちが自分の動向を窺っていた。いいカモだ、食い逃げ犯を捕まえれば、店から謝礼だって出るだろう。そのつもりで彼らは入店したのだろう。どうする。彼らと戦って財布を取り返すか?だめだ、と彼は頭を振った。安全地帯で暴力沙汰を起こせばそれは同罪。自分も奴らも同時に叩き出される事になる。逃げ場を失った自分は実に殴り心地のいいサンドバックだ。どうする。左の胸が酷く痛み始めた。どうする。立っていられない。痛みに震える網膜が、何かの発光を捉える。呻きながら、左の義手がカウンターの淵に手をかけた。手の中にあったのはあのピンクチラシ。それを偶然にも店長に差し出す形になったのである。ミンヒョクは痛みの中でチラシを見る。チラシが微かに発光しているように見えた。

 痛みがゆっくりと治まり始め、彼は腹の奥で覚悟をした。これから起こる暴力をどうやってやり過ごすか、そちらに全力を費やす方が生産的だ。


 数秒の空白の後、店長は暫くそのピンクチラシを食い入るように見て、それから彼に九枚の紙幣とコインを寄越したのである。


 目を丸くしたまま、彼は手の中の紙幣を見る。店長は何も言わずにレジを閉め、キッチンへと入っていった。何かを言おうと思ったが、手の中の紙幣の暖かさが彼に口を閉じさせた。寒くなり始めた十月末のギラン、その貧民街の街中に彼は投げ出される。九枚の紙幣を懐に隠すようにしまって、ジャンパーで守った。そのまま寝床にしようとしていた安宿とは別の方向へと足を向ける。息を弾ませながら、彼は震える手の中のそれをもう一度確認した。金だ。物が買える。物が食える。寝る場所が買える。


 俺の手の中には、今、金がある!

『イノベーション・デストラクション』をお読みいただき、ありがとうございます。

本日は第1話~第3話を一挙公開しています。

ここから先は【隔日21:10】更新予定です。

貧困から這い上がろうとするミンヒョクと、彼を取り巻くギランの人間たちの行く末を、最後まで見届けていただければ幸いです。

感想・評価・ブックマークも歓迎しております。

次回、第4話【10月21日 21:10】更新予定です。

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