unfrozen
【side:ミンヒョク Timeline 十二月五日 午前〇時過ぎ ベニーのアパート】
彼女から手渡されたのは、屋台のラパン。平たいパン生地に野菜や肉、そしてソースを絡めたこの国の名物料理だ。包み紙からぬるい温度を感じた。ついさっき、買ってきてくれたのだろう。ベッドの前にある小さなテーブルの上に、ラパンと甘いミルクティーの紙コップが置かれていた。
ベッドの端にいそいそと腰掛けた彼女は、袋の中身を確認し、包みを解く。まだ湯気の立つラパンをミンヒョクに見せつけて、シャケのクリームチーズ!と言って笑った。それから大きな口を開けてそれに齧り付いた。口いっぱいにラパンを頬張る。口の端にチーズをつけた無邪気な笑顔のまま、美味しいー!と言って笑った。
きっと美味しいんだろう、とミンヒョクは思う。でも食べる気にならなかった。なんだか重苦しいものが自分の胃と胸に詰まっていて、食べる気になんてならないのだ。透明になっただろうシーツを投げ捨てて、路地裏で蹲った。いくところなんてなかったから、ゴミの山に埋もれて墨子をあおった。二口で頬は燃え、寒さが消えた。三口で何もわからなくなった。
ミンヒョクにはもう何もわからなくなった。ただはっきりしているのは、自分には何もないということだけだ。生きて存在するだけで他者に迷惑をかける。ここまで落ちぶれたのに、気持ちはあの優雅な生活を取り戻したいと思う。だが今の自分にはそれを願う資格もないと思った。唯一自分に温情をかけてくれた人間を、これ以上ない形で裏切った。腹の奥から自分がいう。死ぬべきだ。死んで詫びるべきだ。こんな迷惑な人間も、迷惑な石も、存在するべきではない、と。
ゴミの山を枕にして雨に打たれながら酔い潰れていた。できればこのまま死ねればと思った。だが無情にも意識は戻り、凄まじい頭痛が彼を襲った。網膜を刺したのは室内の電灯だ。彼の体は濡れた地面の上ではなくて、柔らかな、けれども安っぽい香水の香りが充満するこの部屋のベッドに横たわっていた。
ベニー・オーウェンと名乗ったこの女は、実に甲斐甲斐しくミンヒョクの世話をした。理由を聞いたらこんな言葉が返ってきた。
「だってキミ、ずぶ濡れで可哀想だったんだもん」
彼女はあのメノークタワーの地下歓楽街の店で踊り子をしているという。記憶を探ればそんな女が居たようにも思うし、何度か彼女のストリップも見た覚えがある。でもその時は例外なく酔っ払っていたし、あの時の自分には彼女のような職業の人間は全て卑しい人間として映っていた。満ち足りたメノークでの生活が思い出される。そして自分が蔑んだ人間に今施されている。その現実がミンヒョクを虐める。だから自分の名前も、そしてあのメノークに住んでいた事も言わなかった。
手の中のラパンが冷えていく。もっといい飯を食ってた、と思う。そう思ってしまう自分が、ひどく歪んだ人間のように思える。堂々巡りの思考は最後はここに行き着いた。あの親父の飯を食いたい。項垂れたミンヒョクの顔を覗き込んだベニーが、大きな目をくるくるさせて彼に言った。
「食べないの?」
彼女の質問を黙って受け止めた。そのまま色々な事を考える。せっかく買ってきてくれたのに、でも食べたくない。食べたくない?腹は減ってるはずなのに。違う、食べられない。食事というものはきっと、生命力と直結しているのだ。だから、死のうとしている人間に食事はもう、必要ないのである。だから掠れた声で言った。
「・・・食べたくない」
説明も何もかもを省略して呟いた。視線は冷えていくラパンに注がれている。また、隣から声がかかる。
「ラパン、嫌いなの?」
ベニーの声色が悲しそうだった。だからそれは否定した。顔を上げて、違う、と言おうとした視界が黒く染まる。鼻の頭に何か柔らかいものが触れている。後頭部を支えるのは多分腕だ。ミンヒョクの頭はまるまる、ベニーの豊かな胸の中に抱き込まれた。生まれて初めて感じる、女性の肉体の温度。滑らかな彼女の肌が自分の髪を撫でる感触、頭部に落とされたキス、それら全てがむせ返るようなチープな香水と共に、ミンヒョクを受容する。
「キミはね、いますっごく悲しいの。悲しい時は美味しいものを食べなきゃダメ。寒かったら私が抱きしめてあげる。あったまるまでずっと」
胸の奥が冷たいから、彼女の体温が怖かった。だから振り払おうとしたのだけれど、それもできなかった。彼女の腕も腰も驚くほどに細かったし、彼女の体温が余りにも優しかったから。手が震える。それが自然な事のように、腕が上がる。左手の義手は温度を感じられないけれど、それを使って彼女の背中を抱きしめたら、香りが強くなった。そうしたらやっと、両目から涙が溢れてきた。
彼女の胸に抱かれながら、ミンヒョクは静かに鼻を啜る。彼女のシャツが涙を吸い込んでいく。縋るように彼女を抱きしめて、声を殺した。
「俺・・・は、ほんとに、バカで、ダメで、くそやろうで、」
ベニーの優しい声がまた彼を包む。
「大丈夫だよ?クソやろうなんて一杯いるよ?」
「助けて、・・・くれた人に、酷い事、して」
ベニーが頭上で、クスクスと笑い声を立てる。彼女の腕が解かれて、冷えたベニーの細い指が、泣き濡れたミンヒョクの頬を包み込んだ。滲んだ視界に、ベニーの整った美しい笑顔が広がる。彼女は優しく微笑んでいる。そして言う。
「人生ってね、どんな時だって素晴らしいんだって」
ベニーの指がミンヒョクの涙を拭いた。後から後から流れ出る涙を掬いきれなくなったベニーが、ミンヒョクの額にキスを寄せた。再びベニーはミンヒョクを抱きしめて、ベッドに横たわる。底冷えしていたミンヒョクの胸の奥に、熱が戻る。横倒しになったベニーの肉体を縋るように抱きしめて、ミンヒョクもベニーの隣に体を横たえた。
「私の友達にもね、クソ野郎がいるの。そいつは詐欺師でね?昔すっごい悪い事をしたんだって。それで奥さんも殺されちゃったの。でも、そいつは言ってるよ?人生は素晴らしい、って」
ベニーの声の奥で雨の音を聞いた。やっと外が雨で、部屋が冷えている事、そして自分が震えていた事にミンヒョクは気がついた。だからベニーに縋る。この体温だけが、何かを溶かしてくれる。
「そいつが奥さんに最後に言われたんだって。人生は素晴らしいって。貴方に会えてよかった、って。だからそいつ、ずっと人生は素晴らしいって言い続けてるの。やばいでしょ?」
押し殺していた感情が蘇ってきた。息を吐いたらそれが音になった。湧き上がってくる激情のままミンヒョクは声を出して泣き始めた。
「私も、キミに会えて嬉しい。キミが悲しいのは嫌だな。だからキミに魔法の言葉をあげる。人生は素晴らしい、だよ?」
深夜、ギランを濡らす雨の中、薄い鉄材に跳ねる雨音の中で、ミンヒョクは全てを吐き出し泣いた。いつの間にか冷えていた手は温まっていたし、耐え難い空腹が腹の底から湧き上がるのを感じていた。
* * *
その部屋はとんでもなく暗かった。恐らく打ちっぱなしのコンクリートに囲まれた、地下室である。光源といえば、その冷えた暗闇をブルーライトで照らすモニターの明かり。そこにはミンヒョクの自宅で起きた一部始終が再生されている。
シーツを被ったミンヒョクの姿が消える。その部屋の奥でいびきをかいているミスター・コール。部屋に人がいなくなり、そこに彼女が戻ってくる。音声のない小さなモニターの中で、ミスター・コールは目覚めることなく首を掻っ切られた。それから画面の中の女は、ミスター・コールの四肢を切断する。首と胴、それから手足を分割して、旅行バックに詰め込んだ。お次はバスルームの中のボトルガールだ。酷く暴れたが、頸動脈を切り裂いて静かにした。同じ作業を繰り返す自分の姿を、蘭玉は華国産の「QBZ」というタバコを吹かしながらなんの感慨もなく眺めている。
惨劇の後も生々しい部屋に、ある男達が踏み入ってくる。その男の顔を確認して蘭玉は片目を細めた。なんてこった、地下世界だ。厄介な奴らに知れちまった。口の端を鳴らして、蘭玉は背後に佇む何者かに声をかける。
「予定が予定通り行かないってのが一番腹が立つよ、ねえ、ミスター・コール?」
淡い光源に照らされて浮かび上がるのはミスター・コールとあのボトルガールの姿だ。二人とも虚な目をし、口から血を吐きながらゆらゆらと揺れながら立っている。揺れる二人の首元でチラチラと光るのは細いワイヤーだ。首は縫い付けられ、胴体に繋がっている。手足も恐らくそうなのだろう。
「やっぱり木っ端ってのは使えないねえ。あんたらみたいな無能なバカ、最初っからこうすりゃあよかった。仏心ってのは、いい仕事の邪魔になる」
そういうと蘭玉は、恐らく両手の指に絡まっていた細いワイヤーを振り払うような仕草をした。二つの動く死体は一瞬電撃に打たれたように体を引き攣らせる。次に彼らは視線の定まらない目のまま、ゆったりと蘭玉に笑いかけた。満足げにそれを受けて蘭玉は彼らに命ずる。彼女が持つもう一つの技術。死体を無線で自由に操る『傀儡回し』である。
「さあ、行っといで、木偶人形。街を虱潰しに探すのさ。あの坊やが生きてなくても関係ない。何がなんでも、石を取り戻しておいで。あれは私ら、摆烂公社の所有物だ」
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
そろそろ分かったと思いますが、そうです。二つの視点を行き来しております。
次回はSTORM視点。
次回更新:【11月5日 21:10】
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引き続き『イノベーション・デストラクション』をよろしくお願いいたします。




