妻の秘密
叔父上が来てアズロ伯爵の愛人に選ばれるかもしれない、という話を聞いたユーレは、その夜、寝室のドレッサーの前で自嘲気味に笑っていた。
「長いこと、社交もしていなくて。髪や肌の手入れもしていないこんな老けた顔の私を愛人にしたい、なんてアズロ伯爵が思うかしら、ね……」
ユーレの中から鏡越しにユーレを見る。そんな不思議な状況だが、ユーレと同じく鏡越しにじっくりとユーレを見た。
そこには出会った頃は美しかった髪だったのに、手入れもされていないボサボサでパサパサな伸び放題の髪に変化していて。薔薇色というのか頬に赤みが差して触れば弾力の合った瑞々しい肌が、カサカサして青白く痩せこけ、目の下に隈が出来ている不健康そうな肌に変化した女が居た。
顔貌は間違いなくユーレだというのに、ユーレの顔をこうしてじっくりと見るのは十数年ぶりという事実。
老けた。
その一言で片付けられるのは確かだが、そうさせたのは俺、だ。きっとユーレの中に入り込んでいないでユーレの顔をじっくりと見たら、俺は悪びれもしないで「老けたな。年齢より老けて見えるなんて……」 と言い切っただろう。こんな老けた顔に俺がさせている、それだけ苦労させている、と俺は全く気付かないで言い切るに違いない。
「もし……万が一にも、愛人の話が出て来るのなら……」
(こんな老けた顔では、話が流れてしまうわね。美容にすらお金を掛けられない私をアズロ伯爵は憐んで下さるかしら?
それとも、此処まで酷いとは思わなかった、と愛人にするのを躊躇されるかしら)
躊躇してくれるなら有り難いが、ユーレは愛人になることを受け入れると言うのか。俺はなんだかショックを受けている。
そんな俺の気持ちに当然気付ける訳がないユーレは、ふと、書棚の一角に置いてある手紙入れを出した。そこから出て来たのは結婚前、婚約期間中に俺が出した手紙。
取っておいてくれていたのか……。
「ふふ。この手紙を頂いていた頃は、好きになりたいから、君の好きな物を教えてくれ、と旦那様は言っていたのに。好きな色も好きな花も好きなお菓子も好きなダンスの曲も教えたわね……。そうして旦那様から教えてもらった好きな物を知る度に距離が近づいた気がして。
いつの間にか、お互いの間に恋が芽生えていた。その恋心を抱いたまま、私達は結婚した……はずだったのに」
そうだ。
俺達は手紙を出し、互いの好きな物を贈り合い、話を重ねて想いを育てて来た。
結婚した頃は愛し愛されていた。……俺が愚かな真似をしなければ、きっとユーレの心には今も俺への想いでいっぱいだったはず。
けれど。
ーー今のユーレの心は空っぽ。
「人の気持ちは移ろうもの、ね。私の気持ちも最早旦那様の元には無いもの。今、私が大切なのは可愛い娘のカーナと……」
(そして、あの人から貰ったあの手紙)
カーナの事を大切だというその柔らかな声音には、母としての情を感じさせたが……。あの人って誰だ⁉︎ おい⁉︎ あの人ってまるで愛する相手が居るような……それもなんて優しい声音が心の中で響くんだ⁉︎
俺の質問に答えるかのように、ユーレは俺が送った手紙を再び仕舞い込み、ドレッサーの鍵付きの引き出しからジュエリーボックスを取り出して、殆ど空っぽの中身の下段から1通の手紙を出した。
ドクン!
この高鳴りはユーレの心音、なのだろうか。
止めろ、その手紙を読むな!
俺の強い想いとは裏腹にユーレの指は手紙をカサリと開き。ユーレの口元が軽く緩み。ユーレの目は書かれた文字を映し出す。そこに書かれていたのは……
“ユーレ奥様へ”
という、書き出しを映し出す。少なくともユーレが俺と結婚した後に貰った手紙だ。
“突然、こんな手紙をすみません”
辿々しい筆跡。おそらく奥様と明記されている事から使用人。雇っている使用人達の中にこの手紙を書いた者が、居る?
“奥様と初めてお会いしたのは、奥様が医者様の手伝いにおれたち平民の元に来てくれた時でした。大勢が医者様にみてもらいたくて、押しかけたのに、奥様も医者様も嫌な顔一つしなかった。奥様はまるで天使みたいでした”
天使。
出会った頃のユーレは、確かに可愛く笑う人だと思った。言われてみれば天使みたいだったかも、しれない。
“おれは腰を痛めた親父の付き添いで。また怪我でもしたら会えるかな、なんて思ってました。でも。次に会ったのは、このお屋敷でした。奥様は、旦那様と結婚してました。おれは平民の庭師で。親父と一緒に仕事に来ただけ。それでも奥様は、親父とおれに気付いてくれました。覚えていてくれましたね”
そんな偶然も、有るのか。
“そして、親父を気遣う奥様の優しさ。おれ達みたいな平民に優しく笑ってくれるところが変わっていなくて、うれしかった。奥様、今日でおれはお屋敷の仕事が終わります。だから言わせて下さい。おれは、奥様が好きです。結婚してる奥様。貴族の奥様におれの気持ちを知ってもらうのは、良くない事だと頭の悪いおれでもわかります。だけど。それでもおれは奥様が好きです。だから、どうかお幸せに”
最後に名前が書かれている。
黄ばんだ紙。何度も読み返したのか、紙の端がボロボロ。そして、おそらく何度もそうしたと思う、当たり前のようになぞる指先。
文字をなぞる指先は愛しい、と伝えてくる。
愛しい、愛しい、とユーレの心の中が満たされていく。
ーーきっと、この手紙の相手を思う時だけ、ユーレの空っぽな心が満たされるのだ、とユーレの中に居る俺は思い知る。
(この手紙を貰ったからと言って、旦那様を裏切るつもりは……あの頃も今も無い。だって貰った時は、旦那様の最初の裏切りを知ってもまだ……愛していた、から。今の、旦那様を愛する気持ちも旦那様からの愛される想いも無い今の、私でも、彼の元に行こうとは思っていない。だから裏切ってない。だけど)
また文字をなぞりながら。
(彼と再会した時も何も思っていなかった。でも。この手紙を貰って読んでみて、初めて彼を異性として意識した。これから先、彼と会う事が無くても。私はこの手紙だけ有れば生きていける。旦那様を愛する想い、愛される想いが無くても、この手紙さえ有れば)
もう、ユーレの中では、俺は彼女の支えにもなっていない。ユーレの支えは、この手紙。手紙を書いた平民からのその時の想いだけ。
ユーレがこの手紙を貰ったのは、最初の裏切りの時、らしい。それはおそらくナナという愛人に乗り込まれ、愛人が居る事、子どもを認知しろと迫られた事、自分が子どもを産めなくなってしまった事……それらが一度にユーレを襲ったあの頃に、貰ったという事だろう。
俺が何も知らずボロボロになったユーレに寄り添う事もせず、きっと手紙だけがユーレを支えた……。あの頃も、今も。
(彼は確か……結婚した、と聞いてるわ。良い人に出会ったのなら良かった。彼は私の幸せをこの時確かに願ってくれた。だからこの手紙が在ってカーナが居てくれれば、それで私は幸せだわ。もしも、アズロ伯爵に愛人になるよう迫られても、大丈夫よ。この手紙が支えてくれるわ。そしてカーナの幸せに繋がるのなら。愛人契約なんて大したことない)
俺は、ユーレのその気持ちに、させてはいけない決意をさせてしまった事を知る。
きっとユーレはアズロ伯爵に愛人になれ、と言われれば受け入れてしまうのだろう。俺にそれを止めさせる事もなく。……当たり前だ。こんなどうしようもない男の、クズな夫の意見なんて聞く事は無い。
ユーレにとって俺は同居人……いや、同居人ですら無い。仕事もしないで遊び呆けて借金を作って愛人を3人も作る奴なんて同居人ですら無いだろう。
だけど。
どうか、神が居るなら届いて欲しい。今すぐ、俺は俺の身体に戻りたい! ユーレを金と引き換えに愛人生活を送らせたくない!
お読み頂きまして、ありがとうございました。
何をもって浮気・不倫と言うのか人それぞれでしょうが。
使用人からラブレターをもらって、それを大事に取っておき、心の支えにしているユーレの事を浮気や不倫(身体ではなく心だけでも)だと思われる方もいらっしゃると思います。となれば、どっちもどっちな似たもの夫婦とも言えますね。




