10
老御者――デゼウスにとってサーシャは、『雇い主のところに時折訪ねてくる偉い旦那様のかわいい娘』であった。
当時デゼウスはすでに三十近く、サーシャはまだ十にも満たない子供だったのだから恋愛感情などではない。単純に時々遊びに来る子を見守る親戚のような気持で、庇護するべき相手としてサーシャをかわいがっていたのだ。
サーシャは快活な子で、馬好きで、父親が用事を済ませている間を厩舎で過ごすことが多かった。
「ねえ、馬の歳って歯を見ればわかるってほんと?」
そんなたわいもない質問に応えて二人で馬の口の中を覗き込んだり、馬の乗り方を教えたり、デゼウスはともかくサーシャを可愛がっていた。彼女が年頃になってユーレリオ家に輿入れが決まった時、一番喜んだのもデゼウスだった。
「これからはいつでもお側にいますからね、困ったことがあればすぐ呼んでください」
そう言って彼は、サーシャを陰ながら一生守っていこうと心に決めた。
しかしサーシャの産んだ最初の子供が虚弱体質であったことが彼女の立場を危うくした。
ユーリウスは産声を上げずに生まれた。産婆が逆さまに吊るしてパァンと背中を叩いてやっと息を吹き返し、オギャアと弱々しく泣いたのだ。
この家の長男である以上、『勇者』の称号と家督を継ぐ大事な子だ、ユーリウスには腕のいい回復術士がつけられ、彼は一命を取り留めた。それでも、この子が虚弱であった責はサーシャひとりにかぶせられた。なにしろ医療といえば薬草を煎じるか、大金を払って回復術士を呼ぶかというような遅れた世界なのだから、心ない非難がサーシャに向けられた。
「きっと母親の家系に良からぬ血が混じっているに違いない」
その非難をかわすため、そしてユーリウスにもしものことがあったときの『代わりの子』として、サーシャはすぐに次の子を産まされた。それだけでも女としては屈辱であっただろうに、虚弱な子を産んだというレッテルは剥がれることがなかった。
「あんな子を産まなければ、もっと真っ当な子が『勇者』を継いだだろうに」
陰に日向に悪口を言われ続け、サーシャは心を病んだ。馬が好きでよく笑う少女だったサーシャが暗い顔をして一日中ふさぎ込んでいる様子に、デゼウスはひどく心を痛めた。
それもこれもすべて、あの虚弱な子が生まれてしまったがため……デゼウスは忠実に職務をこなしつつも日々、ユーリウスへの恨みを募らせていった。
そんなデゼウスににっくきユーリウスを葬るチャンスが訪れたのは、旅に出る少し前のことだ。彼は主であるユーレリオ卿に内密に呼ばれた。表向きは息子の旅に同行する御者をねぎらうとのことだったのだが、旅の話もそこそこに、卿はとんでもないことを言い出した。
「『あれ』が危ない目に遭っても、助ける必要はないから」
「あれ、とは、ユーリウス様のことでごぜえますか?」
「そうだ」
デゼウスが答えに困ってもじもじしていると、ユーレリオ卿は少し頬を緩ませて、いかにも人のよさそうな笑顔になった。
「あれは体が弱い、このままこの家に引き留めておいても遠からず死ぬことになるだろう。さらに過酷な旅路とあっては死期を早めることもあるだろう。その時、君は『何もしなくていい』」
「つまり、見殺しにしろということでごぜえますか」
「そうはっきりと言わないでくれ、これでもわたしは父親なのでね、世間体というものがある」
ユーレリオ卿は笑顔を崩さない。
「だがね、同時にわたしはこの家の家長でもあるのだから、この家を守り発展させてゆく能力のある子にこの家を継がせたいとも願っている。そのためにはあれは少し邪魔なのだよ」
この時のユーレリオ卿の表情を、デゼウスは今も覚えている。いかにも優しげに微笑んでいるというのに、その瞳は冷たく冷め切っていた。
「はっきり言おう、わたしはあれをこの家から排除したい。だが、今後のことを考えれば直接手を下すわけにはいかない。だからこそこの旅の途上で病に斃れてくれでもしたらありがたいということだよ」
「なるほど、わかりやした、あたしゃぼっちゃまが危ない目に遭われても、力及ばずお救い出来ないってことにしておけばいいんですね」
「よいぞ、賢いぞ、馬番などさせておくのは惜しいくらいだ」
「いえ、それほどでもねえですだよ」
「ともかく、これは王の意向でもある。あれは虚弱とはいえ勇者の称号を持つ者だ、下手に手柄でも立てられて面白おかしい英雄譚でも作られてしまっては次の勇者を立てるにも面倒だ、だから旅の途上なんの手柄も立てぬうちに人知れずひっそりと死んでほしいと、わかるかね、これが王の意向なのだよ」
「つまりは王さまも、積極的に手を下したくはないがコロリと死んでくれればいいと思っていると、そういうことでごぜえますだな」
「すごい、賢いぞ、その通りだ!」
「ようござんす、万事あっしにお任せくだせえ」
この瞬間、デゼウスの中にひどく自己中心的な正義が生まれた。
誰もがユーリウスの死を望んでいるが、自ら手を汚すには社会的な立場がある、家柄もある、何より世間体がある。
だけど、一介の御者であるデゼウスならば……家柄もない、社会的な立場もない、なによりも可愛いサーシャの笑顔を奪われた恨みだけはある。
「ええ、任せて下すってけっこうですとも」
デゼウスはニヤリと笑ったーー。




