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夜中過ぎ、真由は風呂に入ろうと、長い廊下を一人で歩いていた。
食事が終わってから一人になる隙がマジでなかった。
真由の身を案じたユーリウスの指示で大部屋に移されてネロリとセバスチャンも同室になったし、ちょっと廊下に出るにもトイレに行く時も必ずユーリウスがついてくるし。
「ちょっと過保護なんじゃないかな」
真由が口を尖らせると、ユーリウスはキッパリと答えた。
「"用心せずに後悔するくらいなら、用心し過ぎて笑い物になる方がマシ"という格言があるでしょう?」
「いや、聞いたことないけど」
「そうですか、こちらの世界ではごく普通の言い回しなのですが、私もまさに、用心せずに後悔するようなことは絶対にしたくない、そう思っているところなのです」
「で、笑い者になるくらい用心しているわけね」
「はい!」
それでも善意であるのはわかっているから、強くは怒れない。
そういうわけで真由は一度目の風呂は湯に浸かるのもそこそこに、急いで済ませて早い時間に寝床に入った。そして今、ユーリウスたちが寝静まったのを確かめてから、真由は一人で大浴場に来たのである。
何しろここの大浴場、「アニメの次に温泉巡りが好き!」という真由のアンテナにビンビンくる名泉だったのだ。
重機もない異世界のこと、浴槽は天然の大石を丹念に積んだ野趣あふれる素朴なものだ。そこへおそらく山奥から引いてきたのであろう筧を渡して、贅沢にも源泉かけ流し方式、おまけに泉質はとろりと肌に巻き付くような乳白色の硫黄泉――各地の温泉を旅してまわった真由ですら二回ほどしか見たことのない特上の良泉である。
これをゆっくり堪能しないのは温泉好きの名折れ、いや、もはや温泉に対する冒とくですらある。
ということで、真由はみなが寝静まった夜中に、誰にも知られぬように、この最高級の温泉を堪能しに来たわけである。
脱衣所にはだれもいない。
「風呂は命の洗濯、ってね」
真由は上機嫌で服を脱ごうとした。
と、その時だ、真由が異常に気付いたのは。
「なに、この匂い」
浴室の方から漂ってくるのは甘い花の香り。
これがただの風呂好きであったなら、単なる入浴剤の香りで片づけていたであろう。しかし真由は温泉マニアであり、温泉はややもすれば悪臭に近いあの独特のにおいこそが薬効であり、それを隠すような花の香りをつけたりするはずがないことを知っている。
「まあ、異世界だしなぁ」
もしかしたら異世界ゆえの風習で、花など浮かべてあるのかもしれない。それを先に確かめようと、真由は脱ぎかけていた上着を羽織って、浴室へと出た。
そこには、あの老御者がいた。彼は何やら怪しいツボを抱えて、風呂の景観として置かれた大きな岩の上に座っていた。
「よう、嬢ちゃん、思い知らせてやりに来たぜ」
ゲスな男だ。真由は呆れて笑う。
「思い知らせるっていうから、どんな復讐をするつもりかと思えば……なに、エロ同人的なお仕置きでもするつもりなの?」
「な、なんだ、エロ同人って?」
「あー、まあ、エロ同人はどうでもいいわ、公式でもよくある展開だし。要するに性的な調教でもして、私を言いなりにしようっていうわけ?」
「な、なんだ、お前のいうことは難しくてわからん!」
「つまり、『ぐへへへへ、俺のチ○ポがないと生きていけない体にしてやるぜ』とか、しようとしてるわけ?」
「お前っ! 下品な女だな!」
「あなたの方が下品でしょうよ、風呂に入ろうとしている女を襲おうなんて!」
「それはお前がなかなか一人にならないから!」
言い争いながらも、真由は冷静に逃げる準備をしている。片足をこっそり引いて、いつでも出口に向かって走り出せるように身構えているのだ。
だが、いまはまだ走り出すタイミングではない。相手の出方が分からない以上、先走って動けばどんな攻撃を受けるかしれない。
「へー、エッチなことはしないの?」
「当たり前だ、お前みたいな跳ねっ返り、抱く気も起きねえ」
「じゃあ、どうするつもりよ」
「決まってんだろ、シンプルに死んでもらうのさ」
老馭者が、抱えていた壺を掲げた。掌に乗るほどの小さなツボだが、ミツロウでぴっちり封がしてある。
驚くべきは、口はぴっちりと閉じてあるのに、素焼きの肌を透かして甘い香りがこぼれ出していることだ。すでに硫黄臭い湯気の香りはすっかり隅に押しやられて、あたりにはバラの花を思わせる甘い芳香が漂っている。
「あんたを死に誘う香水さ、こじゃれているだろ?」
老馭者がさらに高く壺を掲げる。どうやらあれを真由に投げつけようという算段らしい。
嫌な気配がした。そこから漂う香りは甘いのに……いや、甘いからだろうか、棺に満たした葬花を思わせて禍々しい。
真由は一気に体を翻し、出口に向かって走った。しかしその動きを予測していたのか、老御者は少しも慌てるそぶりがなかった。
「おいおい、俺からのプレゼント、受け取ってくれよ」
投げつけられたツボは、真由の背中に当たって割れた。その衝撃自体は大したことはないのだが、悪質なのは中に満たされていた甘い匂いを放つ液体がたっぷりとばらまかれたことだ。
「うわ、臭っ!」
どんなに良質な香水であってもつけ過ぎれば悪臭。それよりもさらに強い香気が湧き上がったのだからたまらない。
「ま、まさか、吸うと死んじゃう?」
慌てて鼻を押さえる。
しかし老御者はニヤリと笑って言った。
「いいやぁ、それを吸ったって死にはしないよ。そんな綺麗な死に方をさせるもんか、あんたなんかモンスターに襲われて、汚い肉団子になって死ぬのがお似合いさ!」
「モンスター!」
「ああ、キラービーっていうんだがね、とてつもなくバカでかい蜂の化け物さ。そら、さっそく嗅ぎつけたようだな」
浴室はいくつも灯したランプのおかげでほんのりと明るいが、その向こうはあかりひとつない闇である。もっさりと闇が深いのはそこに深い林がある証拠であり、その林の中から、低く唸るような羽音が聞こえる。
「やばい!」
真由は脱衣所を一気に駆け抜けた。老御者の声がその背中を追う。
「逃げたって無駄無駄!」
ブゥンと一際強く羽音が鳴るのを背後に聞きながら、真由は無我夢中で走った。
「とりあえず、セバスチャンのところに!」
魔法に長けた彼ならば、モンスター如きなんとかしてくれる……ような気がする。
真由はみんなが眠る部屋を目指して、長い廊下を走った。




