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夕食はとれたての野菜をふんだんに使った彩り良い御馳走だったが、真由はそれに箸をつけるーーいや、フォークを立てる気にはならなかった。シクシクと痛む胃を押さえてうらめしそうに食卓を睨みつける。
その視線に気づいたユーリウスが、心配そうに眉根を曇らせた。
「どこかお加減が悪いのですか?」
彼はテーブルの下に手を突っ込んで、細々したものを入れた巾着を取り出した。
「ちょうど胃薬を持っています。熱もあるようでしたら風邪の薬も。あとはそうですね、体の冷えに効く薬もありますし……」
こうした旅行きの食事では主人と供の者が同じ食卓を囲むことも多い。ユーリウスの向かいには老馭者が座っていたが、彼はテーブルの上に次々に並べられる薬袋を見て鼻先で笑った。
「さすが虚弱なお坊ちゃん、ありとあらゆる薬を持ち歩いてんのかよ」
「さすがにありとあらゆる薬はありませんよ。よく使うものだけですよ」
「そんでも多すぎだろ、普通のやつは大抵の病気ってのは酒飲んで一晩寝たら治るもんなんだよ」
「そんな乱暴な……」
「乱暴じゃねえよ、あんたが甘えすぎなんだ!」
ネロリがそんな老馭者の袖を引く。
「義父さん、お屋敷の坊ちゃんに、そんな乱暴な口きくの、よくないよ」
怒号とビンタが飛ぶ。
「うるせえ、クソガキ!」
老馭者のビンタをまともに食らったネロリは椅子から転げ落ち、そのまま左頬を押さえて黙り込む。老馭者の方は口から泡を飛ばして怒鳴り散らす。
「お前、誰のおかげで飯が食えるんだ? 誰のおかげで馬丁の仕事ができる? 全部俺のおかげだろうが!」
真由は周りを気にして、老馭者を宥めようとした。
「まあまあ、そんなに腹を立てないでください、ね、せっかくの食事ですから」
「せっかくの食事だから何だって言うんだよ、あんた、女のくせに俺に意見しようってか?」
「そんなー、意見なんかじゃありませんよー」
真由だって大人の女、嫌な上司の怒声をヘラヘラ笑って受け流す程度のスキルは持っている。
ただ、この時の真由は痛む胃を押さえている状態だった。
「女なんてなあ、家で大人しく男のために飯でも作っていればいいんだよ、それをなんだぁ? 回復術士なんて呼んでチヤホヤするからつけ上がって、男に生意気な口をきくようになるんだわ」
「生意気ですかねえ、私」
ヘラヘラ笑うが、胃はキリキリ痛む。
「あんたさあ、あんまり勘違いしないほうがいいよ、坊ちゃんはあんたを甘やかしているみたいだが、あんたみたいな女、嫁の貰い手もないよ」
「嫁に行くばかりが人生じゃありませんから」
どれほど罵倒の言葉を浴びせられようと、それが自分に関することだけなら、きっと耐え切ることはできただろう。しかし、老馭者は調子づいて、あろうことか口撃の矛先をユーリウスとセバスチャンに向けた。
「だいたいあんたらさあ、男同士なのになよなよなよなよ、いっつもべったりして気持ち悪いンだよ、なんだ、あんたら、ホモか?」
ついに真由の胃の痛みが頂点に達した。キリキリキリキリと音がしそうなほどの痛みを抱えて、真由は立ち上がる。
「……おっさん、いまあんた、なんて言った?」
ゆらりと立ち上がり、低い声でうめく真由の姿に、老馭者は一瞬だけ慄く。しかし相手は女、恐れることはないと彼は踏んだ。
「こいつらが男同士でなよなよベタベタして気持ち悪いって言ったんだよ、だいたいさあ……」
「その汚い口でBLを語るなぁっ!」
その瞬間を見ていたネロリはのちに語ったーーそれは見事なアッパーカットだったと。
メキョッと音を立てて、真由の拳が老馭者の顎を抉った。不意を突かれた彼は椅子から転げ落ち、顎を押さえて蹲った。
真由はそんな老馭者の前に仁王立ちする。
「BLを愛でろとは言わない。理解しろとも言わない。だが、人を罵ることしかしないその汚い口で、崇高な彼らの愛を語ることだけは許さないぃ!」
あまりの剣幕に場が静まり返った。
その静寂を背に、真由はビシッとユーリウスを指差す。
「そもそも、あんたが悪い!」
「え、わ、私ですか?」
「そう! あんたがなんでもかんでも我慢我慢っていい子のフリするから、こういうことになってるんじゃないの?」
「だって……私はもともと体が弱くて周囲に迷惑ばかりかけている存在です。そのうえわがままなんて言ったら、ただの嫌なやつじゃないですか!」
「あっ、そう、そーう、あんた、他人から嫌われるのが怖いのね、わがままで悪い子だって言われて、周りから見捨てられるのが怖いんでしょう?」
「いけませんか? 私みたいな虚弱体質、見捨てられたら生きていけるわけがない、だから保身のためにいい子にしている、それがそんなに悪いことですか?」
「他の人にはそれでもいいでしょうよ、でも、すぐ近くにいて、いつも見守ってくれて、あんたのわがままを全て受け止めてくれる人がいるのに、どうしてその人にすら心を隠すのよ!」
「そんな相手……」
言いかけたユーリウスは、心配そうに自分を見つめるセバスチャンの視線に気づいて言葉を飲んだ。
「やっと気づいたか! もう! 手のかかる!」
ひとしきり吐き出してスッキリしたせいか、真由は急に空腹を感じた。いつのまにか胃の痛みもおさまっている。
「もう、おしまい! あとは自分で考えて!」
真由はガタッと椅子を鳴らして食卓につくと、並べられた料理をガツガツと食べ始めた。
ユーリウスが「ふふっ」っと楽しそうに笑う。
「そんなふうに叱られたのは初めてです」
「あ。そう」
「私もお腹が空きました。隣に座っても?」
「どうぞ」
「ふふっ、本当にあなたという人は……面白いですね」
「別に面白くはないでしょ」
「いいえ、とても面白い。見ていて飽きませんね」
「はあ、そりゃどうも」
和やかな食卓の風景が戻ってきた。ネロリもセバスチャンも笑顔になって、椅子に座り直す。
老御者だけが顎をさすりながら立ち上がり、食卓に背を向けた。
「あんた、女のくせに男の顔を殴って、ただで済むと思うなよ、思い知らせてやるからな!」
不吉な捨て台詞を吐いて、老馭者は食堂から飛び出していった。
ユーリウスだけは、わずかに表情を曇らせる。
「まずいですね……」
あの老御者を長く見てきたユーリウスだけは、あの男のねちっこくて意地の悪い性格をよく知っている。
「真由さん、このあと、決して一人にならないように、何かあるときは必ず私かセバスチャンを呼んでください」
何か嫌な予感がする……その予感が現実のものとなったのは、その日の夜中を過ぎた頃のことだった。




