CASE.095「日野悠離」
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※本話には、児童虐待や家庭内暴力、児童の死に関する重い描写が含まれます。閲覧の際はご注意ください。
※本話を読み飛ばして第96話からお読みいただいても、物語の内容はある程度理解できる構成となっております。
「い、急いでくださいぃブッダ様~ッ」
「分かった! 分かったって、お嬢ちゃんたち!!」
職員たちに背中をぐいぐいと押され、ブッダは嫌々ながらイシス神の個室へと向かっていた。
相変わらず、その見た目に局長らしい威厳はない。
ポロシャツにサンダル。首には大型のヘッドホンを引っかけており、まさにDJ帰りといった出で立ちだ。
(マジで勘弁してくれ……これ絶ッ対、説教の流れじゃんかぁ。イシスの姐さん、怒るとクッソ怖えんだよなぁ~~)
心の中で悪態をつきながら、半ば引きずられる形でイシス神の個室前へ辿り着く。
扉が開くと、職員たちはそのままブッダを部屋の中へ放り込んだ。
「いでっ」
「イシス神様。ブッダ神様をお連れしました」
「ちょっと君たち~、俺の扱いなんか雑じゃな~い? 俺も一応、神様なんだぜ??」
職員たちは聞く耳も持たず、そのまま足早に立ち去っていく。
「ちょちょっと! せめて電話番号だけでも!! というか、1人にしないでぇー!?!?」
遠ざかっていく職員たちの背中を、悲しそうな目で見送るブッダ。
だが直後、背中に凄まじい殺気を感じ取り、即座に正座で姿勢を整えた。
ちなみにヘッドホンも、慌てて尻のポケットへぎゅっと押し込んでいる。
「ねねねねね姐さん、お久しぶりです! 今日もいつにも増してお美しい……です……ね…………」
「………………」
たとえブッダといえど、主神――特にイシスの怒りとは、心底相対したくない。
もはやトラウマと呼べる領域の体験である。
こちらを向かず、窓の向こうに広がる基底界を眺めているだけだというのに、なんと恐ろしい殺気か。
ブッダは冷や汗をだらだらと流しながら、彼女の返答を待つほかなかった。
「…………ブッダ」
「ははははいッッ!?」
恐ろしく低い声に、ブッダの声が裏返る。
「こちらへ来なさい」
(ヤバい殺されるぅーッ!! アフロちゃん、カマちゃん助けてぇ~~!!)
ブッダは正座のまま、器用にイシスの足元までスライド移動する。
すると彼女はゆっくりと振り返り、モニターを指差した。
「あれは何ですか?」
「ああ、あれ? あれって何でしょう??」
「いいから目を通してください」
イシス神はブッダの襟首をひょいっと摘み上げ、そのままデスクの椅子へ座らせた。
細腕でありながら、大の男を軽々と持ち上げる。
さすがは主神である。
ブッダは心底、今すぐ高層階の窓からでも飛び逃げたい心境に陥っていた。
「これです」
「これって……転生候補者の過去ログ?」
「読みなさい」
(なんなんだ、一体……)
訳も分からないまま、ブッダは個体名――日野悠離の過去ログを読み始めた。
◇
以下の情報は、参考文献『=RAC=』の内容の一部を、一般閲覧者向けに翻訳したものである。
題目:転生者「日野悠離」の経歴
氏名 :日野悠離
性別 :男
死亡時年齢:5歳
出生地 :日本
死因 :外傷性脳損傷及び急性硬膜下血腫
備考 :要保護対象
――記録を開始する。
20○○年。
日野悠離は、芸能活動に従事する女性と、婚姻関係にない男性との間に出生した。
出生届の父親欄は空欄。
母親は当時、若手女優として知名度を急速に上げていた時期であり、主演作が大きな成功を収めた直後でもあった。
出産を公表すれば、自身の芸能活動へ多大な影響が及ぶ可能性がある。
加えて、相手の男性には既に家庭があった。
故に悠離の存在は、大人たちにとって、まさしく「忌み子」。
絶対に公にできない――真っ先に闇へ葬るべき事実として扱われた。
そうした大人たちの都合を、産声を上げたばかりの悠離が知る由もない。
彼にとって母親は、世界でただ1人の「ママ」だった。
だが、当の母親は家を空けることが多かった。
撮影、稽古、会食。
帰宅する頃には、日付を跨いでいることも珍しくない。
悠離がまだ歩くこともできなかった頃は、雇われた世話係が交代で面倒を見ていたという。
だが母親の収入が不安定になるにつれ、その頻度は少しずつ減っていった。
やがて悠離が2歳を迎える頃、母親は当時交際していた男性――悠離の生物学上の父親である男と、事実婚に近い共同生活を始めた。
男は正妻との離婚協議すらまともに行わず、半ば失踪する形で妻のもとから逃げていた。
連絡も手続きも放棄し、今では仕事からも現実からも逃げている。
定職にも就かず、悠離の母親の収入に依存して生活している有様だった。
「おい」
「あ、う……」
まともに言葉を教わっていない悠離は、いまだ「パパ」「ママ」という単語すら満足に口にできない。
それもそのはずだ。
世話係が行うのは、あくまで食事や排泄といった最低限の世話のみ。
悠離は人と会話する機会をほとんど与えられず、親の温もりも、言葉も知らぬまま、2年の月日を過ごしてしまっていた。
「パパっつってみろ」
「…………」
「パ パだ」
「……だ、だ」
我が子として迎え入れたはずの幼子が、いまだ単純な言葉すら口にできない。
そのことに苛立った男は、手にしていた空き缶を悠離へ投げつけた。
「はっ、コイツ、マジで知〇遅れなんじゃねえのかぁ!? 誰に似たんだろーな~~?」
「…………あう……」
これが、悠離の記憶に残る最初の父親との会話だった。
男は酒を大いに好んだ。
正確には、酒がなければ眠れず、酒が入れば怒りを抑えられない人間だった。
機嫌が良い時には、悠離を放置した。
機嫌が悪い時には、抱え込んだ鬱憤の全てを悠離へぶつけた。
しかし、幼い悠離にもやがて学習する時が訪れる。
ようやく言葉を話し始めた頃、彼はこの世界に存在する1つの規則に気が付いたのだ。
良い子でなければ、ぶたれる。
今いるこの世界は、そういうルールなのだと。
――
対照的に母親は、悠離へ直接手を上げることはほとんどなかった。
その代わり、言葉という暴力を多用した。
「あんたさえいなければ、もっと仕事を選べたのに……」
「どうして私ばっかり、こんな目に……」
「本当に面倒。絶対私の血じゃないでしょ……なんで、こんな手のかかるガキが……」
「お願いだから、私の人生の邪魔だけはしないで」
母親は鏡の前で化粧をしながら、毎朝、独り言のようにそれらを口にしていた。
悠離に聞かせているつもりがあったのかは不明である。
だが幼い耳は、唯一の世界であるその空間で、彼女の言葉を一言も漏らさず拾っていた。
そして彼は少しずつ、自分なりの規則を作っていく。
泣かないこと。
母の邪魔になるから。
騒がないこと。
父の邪魔になるから。
お腹が空いても我慢すること。
母の邪魔になるから。
部屋の隅で小さくなっていること。
父の邪魔になるから。
大人が寝ている時は、息の音すら立てないこと。
2人の邪魔になるから。
何かを頼む時は、先に「ごめんなさい」と言うこと。
それは――
良い子でいれば、生きることが許される。
それが、彼の生存戦略であった。
――
そんな彼に、転機が訪れる。
悠離は、ちょっとばかりの家出をしたのだ。
おそらくは、子供特有の好奇心から生じた突発的な行動。
母親が外出する際、偶然にも玄関の扉を完全に閉めずに出ていったのだ。
母の後を追いかけるように、5歳まで成長した悠離は、生まれて初めて外界を見た。
何もかもが新鮮だった。
閉鎖的な我が家とは比べものにならないほど、広々とした空間。
空。風。車。
行き交う人々。
悠離は、母親の姿を探して走った。
だが、すれ違う者たちは笑顔ではなく、どこか憐れむような表情でこちらを見ていた。
それもそのはず。
悠離の服は擦り切れて汚れ、髪は伸び放題。
頬は痩せこけ、手足には複数の痣が残されている。
食事事情にほとんど困ることのない当時の日本において、その姿は明らかに異常だった。
通行人からの通報を受け、警察及び児童相談所の職員が現場へ到着する。
悠離は、見たこともない大人たちに囲まれた。
誰もが、家の中では見たことのない表情をしている。
眉を下げ、声を潜め、悠離を傷つけないようにゆっくりと近づいてくる。
悠離は酷く混乱していた。
こんなことは初めてだった。
自分は今、悪い子なのだろうか。
だから、こんなにもたくさんの大人に囲まれているのだろうか。
「あ、ちょっと君!」
悠離はその場から逃げ出した。
大人たちの合間を縫うように抜け出し、母親が歩いていった方向へと駆ける。
すると曲がり角で、1人の女性にぶつかった。
「うぅッ」
「あら、ごめんなさい! 大丈夫!?」
綺麗な女性だった。
母親に負けず劣らずの整った顔立ち。
その女性は屈み込むと、ハンカチで悠離の頬についた汚れを丁寧に拭い、ぽんぽんと頭を撫でた。
優しい手つき。
悠離が生まれて初めて知った、人肌の温もりだった。
「ぼく、良い子?」
「え?」
「ぼく……わるい子じゃ、ない?」
女性は一瞬、言葉を失った。
だがすぐに柔らかな微笑みを浮かべ、悠離の頭をもう一度撫でる。
「もちろんよ。ぶつかったのに泣かなかったんだもの。偉いわ。とっても良い子」
「へ、へへ……」
悠離は微笑み、気持ち良さそうにその手へ頭を預けた。
「あなた、お名前は?」
「なまえ?」
「うん。あなたのお名前」
「ぼく……ゆうり」
「ゆうり君ね。名字は分かるかしら?」
「…………ひ、ひの……」
「ひの……ひのゆうり……」
女性は、その名をゆっくりと反芻した。
「ねえ。もしかして、悠離君のママのお名前って、日野■■?」
「うん! そうだよ!! なんで分かったの!?」
嬉しそうに飛び跳ねる悠離。
だが対照的に、女性の表情は見る間に暗くなっていった。
「悠離君」
「?」
「悠離君のおうちは、どこ?」
「おうち?」
「ええ。私を案内してくれる? ママに大切なお話があるの」
「いいよ!!」
悠離は女性の手を握った。
今度は迷わないように。
離れないように。
その温かな手を引き、彼の唯一の世界である、あの集合住宅へと向かって歩き出した。
◇
「ッ!!」
ブッダは嫌な予感を覚え、瞬時にモニターから目を逸らした。
そしてイシス神を見ると、彼女は眉間に深い皺を刻み、こちらを睨みつけていた。
(まずい……これは姐さんの地雷、踏み抜きまくってる奴だ。あのボケジジイどもぉッ!! なんて案件送ってんだ!!)
「読みなさい」
「いや、もう十分っス。大体の流れは分かりましたし――」
「読みなさい」
イシス神の圧に負け、ブッダは再びモニターと向き合った。
◇
もう、察しの良い方ならばお分かりだろう。
悠離が出会った女性は、彼の生物学上の父親の正妻である。
彼女は、突如として行方をくらませた夫の消息を追い、長らく捜索を続けていた。
やがてその努力が実を結び、日野■■が夫を匿っていると思しき集合住宅まで辿り着く。
しかし、判明していたのは建物まで。
男がどの部屋に潜んでいるのかまでは特定できていなかった。
そんな折、偶然出会ったのが――日野悠離だった。
何も知らない悠離は、初めて自分を「良い子」と認めてくれた女性を、自らの家へと案内したのである。
その後の映像記録は過度に残虐であるため、一般閲覧者向けの翻訳に際し、その大部分を省略する。
以下は、その惨劇の結果である。
室内へ踏み込んだ正妻と、悠離の生物学上の父親との間で激しい口論が勃発。
途中帰宅した悠離の母親も加わり、罵声と暴力が飛び交う乱闘へと発展した。
その最中、争いを止めようと大人たちの間へ入った悠離は、実父の腕に振り払われ、小さな身体を勢いよく吹き飛ばされた。
そのまま後頭部をガラス製のテーブルの角へ強打。
受傷から47分後、日野悠離は搬送先の病院で死亡が確認されたという。
享年5歳。
死因は、後頭部への強い衝撃による外傷性脳損傷及び急性硬膜下血腫。
受傷直後に適切な救命措置が行われていれば、生存した可能性は――否定できない。
母親、生物学上の父親、その妻の3名は、それぞれ保護責任者遺棄、傷害致死、証拠隠滅等の容疑で捜査対象となった。
追記。
対象は死亡直前まで、周囲から受けた加害の原因を自分自身に求め続けていた。
対象の最終発言と思しき音声は、以下の通りである。
――悪い子で、ごめんなさい
以上。
◇
【今回の用語まとめ】
■要保護対象
魂籍管理局の記録上、特に重大な事情を抱えていると判断された魂に付された区分。
日野悠離の経歴には、死亡以前から深刻な虐待・養育放棄が確認されていた。
■日野悠離の第一生
日本で生まれ、5歳で死亡したゥルルの前世。
家庭内で身体的・精神的虐待とネグレクトを受け、「良い子でいなければ生きることを許されない」という認識を形成していた。
■悠離の“良い子”
幼い悠離が生き延びるために身につけた行動原理。
泣かない、騒がない、空腹を我慢する、先に謝る――それらすべてを「良い子」であるための規則として覚えていた。
■日野悠離の死
家庭内の乱闘を止めようとした際、実父に振り払われて後頭部を強打。
外傷性脳損傷及び急性硬膜下血腫により、5歳で死亡した。
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