CASE.074「てるまえ」
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人混みから解放され、念願の食事にもありつけたアン。
彼女が次に紹介されたのは宿屋だった。
看板には、何やら知らない言語で「てるまえ」とある。
外観は木造を基調としていたが、ただの宿屋というには規模が大きすぎる。
正面には太い柱が何本も立ち、屋根は大きく張り出している。
入口の両脇には温泉を示す湯気の印「♨」が掲げられ、扉の隙間からは白い蒸気がゆっくりと漏れていた。
「ここは『ホテル・てるまえ』!! ふか~いところから出るお湯が凄く気持ちいいんだよ!」
「お!? お、温泉!? 本当に!?!?」
大衆感と高級感が同居する不思議な造りに加え、温泉まで備え付けてあるというのだ。
これこそが、アンが喉から手が出るほど待ち望んでいた休息の場である。
アンは腕いっぱいに食べ物を抱えながら、宿屋の中へソロリと入る。
暖簾を潜ると、まず熱気がむわぁっと肌に触れた。
「むわっ!」
エントランスの中央に、初っ端から温泉。
受付や待合席よりも先に、湯船が目に入る設計なのだろう。
岩で囲まれた大きな浴槽からは絶えず湯気が立ち昇り、天井近くへ溜まった蒸気が灯りをぼんやりと滲ませていた。
床には濡れても滑りにくいように、何かしらの毛皮が敷かれている。
壁や柱には防湿処理を施した木材が使われ、受付台の後ろには宿泊客の鍵がずらりと並んでいた。
宿というより、温泉そのものを中心に建物を組み上げた施設のようだ。
「す、すごい……」
「ふふ~ん。すごいでしょ! ここはクルキブリの中でも1番おっきい宿屋なんだよ!!」
ゥルルの言う通り、客の出入りが非常に多い。
浴衣姿の客が湯上がりのまま長椅子に腰掛け、別の客は濡れた髪を拭きながら受付で部屋を取っている。
狩人らしき者たちは入口近くの武具預かりに大剣や槍などを預け、重い防具を外してから奥へ向かっていた。
湯船の周囲には、湯を楽しむ者と、単に足を浸して休んでいる者が混在している。
怪我をした者も少なくない。
包帯を巻いた腕を湯に近づけ、番頭らしき男から効能の説明を受けている者もいた。
「あのお湯はすごい回復するんだって」
「回復……」
この宿では、温泉はただの飾りではないのだ。
受付であり、待合所であり、治療場であり――「てるまえ」の象徴でもある。
狩りから戻った者が、まず鎧を脱ぐ。
武器を預ける。
身体を洗う。
湯に浸かる。
飯を食う。
眠る。
その一連のサイクルを前提として作られた構造。
客の動線を考えた、実に合理的な設計だ。
「うっわ、すっげえッス!」
「いいなぁ~。私もこんな所、一度でいいから行ってみたいわぁ~」
「す、すごいです……」
ミラとカイ、ノルハイコという女性陣が、モニター越しに豪華絢爛な施設を眺め、アンを心底羨む。
執行官を羨ましがるなど、作戦室での待機が基本なカイからすれば、基底界人生初めてであろう。
それほどまでに「てるまえ」は、アンの視界越しでも魅力的に映っているのだ。
特に温泉が。
「ん!?」
食欲をそそる匂いを嗅ぎ、アンは背伸びして何かを凝視する。
エントランスの奥に、食事処が見えたのだ。
「「「うわぁ~~!!」」」
女性陣の目にも入り、一斉に感嘆の声を上げた。
勢い余って、アンはそのまま中へと入ってしまう。
そこは畳敷きの大広間だった。
長い座卓が何列も並び、湯上がりの客や狩人たちが、種族も身分も関係なく肩を寄せ合って飯を食っている。
大皿の肉。
煮込み。
酒。
飛び交う、怒鳴るような注文の声。
さらに上階へ向かう階段の横では、従業員たちが替えの浴衣や桶をせわしなく運んでいた。
そこにエントランスのような上品さはない。
腹を空かせた者たちをまとめて飲み込む、巨大な飯場であった。
(ぐ~~~~~っ)
アンの腹から、可愛らしい重低音が鳴った。
無理もない。
焼いた肉と出汁の匂いが、湯気に混ざって漂ってきたのだ。
街の外は職人と血と鉄と怪物素材の臭いで満ちていたが、ここはまた別の匂い。
湯の匂い。
木の匂い。
そして涎を誘う飯の匂い。
この三重奏に抗える者はいないだろう。
ミラは――別に必要はないのだが――映像越しに「てるまえ」の構造を眺め、空間マップへ簡易的に書き起こしていく。
見える範囲だけでも、本当にあらゆる施設がエントランスへ繋がっていることが分かる。
まるでアリの巣のように、すべての道が中央へ集約されているのだ。
逆に言えば、エントランスから主要な施設へ最短距離で行ける。
安息と効率。
それらに特化した構造となっているのだ。
「まーじですんごい宿ッスね。というか、あの方たちが作った世界にしては、世界観がめちゃくちゃ良くないですか?」
「そりゃそうよ。ここ、一応“α”ランクの世界よ? 全異世界の上位10%圏に入る高位世界なんだから」
「わ、私がこれまで転移した世界の中でも、群を抜いて素晴らしい異世界です」
「まあだからこそ、その世界観が任務を邪魔するんッスけどね……あのバカでかいモンスターしかり」
4段階の異世界評価。
上から2番目の“α”案件ともなれば、もはやその世界観は馬鹿にできないほど作り込まれている。
おそらくこの世界――『α-980-ノード89』は、某狩猟ゲームをモチーフとしているのだろう。
人々がモンスターを狩り、その素材を生活基盤へ組み込む。
そんな狩猟主義世界。
そして相当作り込まれているからこそ、その世界観は大いに執行官へ牙を剥く。
「ユグドラシル」もその1つだ。
散々煮え湯を飲まされた挙げ句、殺されかけたアンは、憩いの場を見つけたことですっかり表情が蕩け切っていた。
「アンちゃん、大丈夫ッスかね……」
「様子を見ましょ。あの子も心身ともに限界だろうし……今日のところは好きにさせてあげましょ」
「りょーかいッス」
「了解です」
アンは改めて、キョロキョロと周りを見渡した。
素晴らしい宿だ。
だが、ここは完全に平和な場所というわけではないらしい。
壁際には討伐依頼の写しが貼られ、湯上がりの狩人たちがそれを眺めながら次の予定を相談している。
休息と準備が同居している。
「ホテル・てるまえ」は、ただ疲れを癒やすための宿ではなく、次の狩りへ向かうために身体を整える、狩人たちの宿舎でもあるようだ。
「…………」
そしてアンは、ゥルルをじっと見つめた。
まるで餌を目の前にして、お預けを食らった子犬。
忙しなくぱたつかせる尻尾が、薄っすら見えるような気がする。
およそ年下の子供に見せる表情ではない。
その無言のメッセージを受け取り、ゥルルはエントランスの受付へと向かった。
「サポーニスさん、こんばんは!」
「あrrrrrっら! ウル坊やじゃないの!」
巻き舌で、浴衣姿の女将らしき女性――いや、男性がゥルルを温かく出迎えた。
どうやら名はサポーニス。周囲からは「サポ」と呼ばれているらしい。
「久しぶりじゃな~い! 元気してた?」
「うん! 今日はね、お友達を連れてきた!」
「あら? あ~らあらあら♡」
サポーニスはアンをじっと見つめ、次にゥルルへ視線を移す。
「素敵なガールフレンドだこと♡ いいわ、好きなだけここにいなさい♡」
「やったー!」
「後ろの子犬ちゃんもね」
「ほ、ホントですか!? わぁ~い!!」
ゥルルとアンは手を繋ぎながら、大いに喜ぶ。
すると依頼ボードの方から、弱々しい声が響いた。
「サポの姉御~、俺の宿代もまけてくれよぉ~」
「黙らっしゃい穀潰し。アンタは早く飯代稼いで来な!!」
「んな殺生なぁー!」
依頼ボードの前で、狩人らしき男性がへこたれている。
頬が痩せこけており、相当な時間何も口にしていない――そういう典型的なかわいそうなキャラクターが配置されていた。
あまりにも悲壮感にあふれており、アンは居ても立ってもいられなくなる。
「あ、あの……」
「あら、どうしたのかしら」
「私、ちゃんとお返ししますので……彼もダメでしょうか……? お皿洗いでも何でもします!!」
「~~~~ッ!」
アンの若人特有のキラキラに照らされ、女将は眩しさで目を細めた。
「んもぉ~、アタシ若い子のその目に弱いのよぉ~!」
「じゃ、じゃあ!」
「ったく、この子たちに免じて今日は許すわ。でも借金は2割増しね」
「よっしゃああああああ!!」
アンは何度もペコペコとお辞儀をする。
わがままを2度も聞いてくれたことに、感謝の意を必死に示そうとしていた。
「いいわよ、そんなかしこまらなくて♪」
「あ、ありがとうございます!!」
「それで、あなた名前は?」
アンはピシッと、上官を前にするように姿勢を正し、名乗った。
「とくしゅ…………アンです! ただのアンです!!」
「良い名前ね。どうぞゆっくりしていきなさい。我が『てるまえ』の魅力で篭絡してあ・げ・る♡」
【今回の用語まとめ】
■ホテル・てるまえ
骸都クルキブリ最大級の宿泊施設。
地下深くから湧き出す温泉を中心に、宿泊・食事・治療・武具預かりなどを一体化した狩人向けの複合施設となっている。
■てるまえの温泉
狩りで傷ついた者たちも利用する、回復作用を持った温泉。
休息のためだけでなく、怪我の療養にも使われており、「てるまえ」の施設構造そのものが温泉を中心に設計されている。
■クルキブリの狩人文化
巨大生物を狩り、その肉・骨・皮・その他素材を生活基盤へ取り込む文化。
宿屋にも武具預かり、討伐依頼、治療用温泉などが揃っており、「休息」と「次の狩りへの準備」が一体化している。
■サポーニス
「ホテル・てるまえ」を取り仕切る浴衣姿の女将の男。
ゥルルとは以前から面識があり、彼を「ウル坊や」と呼んで可愛がっている。アンにも気前よく宿泊を許可した。
■αランク
異世界評価における上から2番目の階層。
『α-980-ノード89』もこれに該当し、作中では数多ある異世界の中でも上位10%以内に位置する高完成度世界とされている。
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