第九十七話:ココムの影
11月下旬、夕刻。
開発室。
製図台の上にはマイラー紙が広げられ、西村がルーペ越しに配線を追っていた。
隣では関根が定規を当て、引き直した経路を確認している。
忠夫はその隣で、クリティカルパスに掛かる経路を目で追っていた。
扉が開き、斎藤が開発室へ入ってくる。
鞄はいつもより少しだけ深く沈み、顔には隠しきれない疲れがあった。
高村がすぐに椅子を引いて立ち上がった。
「どうでした?」
斎藤は返事の前にネクタイを少し緩め、短く息を吐いた。
「……芳しくはないな」
その一言で、室内の空気が重くなる。
西村が図面から顔を上げ、関根の手が止まる。
大門は腕を組み、小林は椅子の背にもたれたまま視線だけを向けた。
斎藤は空いた椅子に腰を下ろした。
「完全な拒絶というわけではなかったが……」
鞄から手帳と数枚のメモを取り出し、机の上へ置く。
「新規CPU開発という一点が、思った以上にハードルが高い。全社で見れば投資額も大きい。試作ライン、マスク費用、量産への道筋……結局はすべて『本当に売れるのか』という話に返ってくる」
「売れる見込みを、もっとしっかり示せということですか」
大門が低く言った。
「そういうことだ」
斎藤は頷いた。
「『誰が買うのか』『どこで勝てるのか』『何年で回収できるのか』――役員が欲しがるのはそこだ」
高村が資料の束を引き寄せながら眉をひそめた。
「……となると、やはり一番市場規模の大きいアメリカでしょうか」
「確かに大きいが、一番きついな」
斎藤は苦笑した。
「IntelもMotorolaもいる。そこへ正面から殴り込む話に見えた瞬間、役員は一気に尻込みするだろう」
「欧州はどうでしょう」
今度は関根が口を開いた。
「言語も規格もばらついていますし。多言語対応の利点は、むしろあちらで生きるんじゃないですか」
斎藤は少し考え込むように顎を撫で、頷いた。
「悪くない。アメリカみたいに“英語圏向けを一つ作れば済む”市場じゃないからな。国ごとに事情が違うぶん、こちらの強みを説明しやすい」
忠夫も資料から顔を上げた。
「汎用オフィス機より、産業機器や制御端末の方が入り口としては現実的かもしれません。リアルタイム性と多言語処理をセットで必要とする現場なら、比較対象をずらせます」
「そうだな」
斎藤はメモへ一行書き込んだ。
「最初から“IBM PCと真正面で戦う”話にしてはいかん。別の土俵を作る必要がある」
しばし、資料をめくる音だけが続く。
その沈黙を、小林が崩した。
「多言語って話なら、欧州は筋がある。……まあ、ソ連まで含めりゃ、もっと相性はいいんでしょうがね」
大門が眉をひそめる。
「馬鹿を言うな」
小林は肩をすくめた。
「冗談だよ。ココムに首を絞められる」
その一言で、忠夫の手が止まった。
「……ココム……」
思わず、声が漏れていた。
小林が少し意外そうな顔をする。
「ああ、ココムだよ。まあ中学生には馴染みがないか。共産圏輸出規制のことだ。共産主義諸国に軍事転用可能な技術や戦略物資の輸出を、西側で共同規制してる仕組みさ」
大門が低く付け加えた。
「ソ連に先端技術が流れないようにするための壁だ。冗談じゃ済まない本物の規制だぞ」
忠夫の脳裏の奥で、忘れかけていた古いニュース映像の断片が、不意にフラッシュバックする。
ココム。
ソ連。
輸出規制。
東芝。
何か大きな問題になった——そんな記憶だけはある。
だが、それが具体的に何が原因だったのかまでは思い出せない。東芝という名前が、連日ニュースを賑わせていた記憶だけが残っている。
(……何だった?)
胸の奥に、小さな違和感が棘のように刺さる。
(確か、東芝機械……子会社のほうだったはずだ)
本体ではなかった。子会社が絡んだ事件だったという印象だけは残っている。
対ソ輸出……ココム違反……東芝の名が大きく傷ついた——そういった断片が、ぽつぽつと浮かんでは消える。
しかし、何が輸出されたのか。
なぜそこまで大騒ぎになったのか。
その核心だけが、霞の向こうに隠れたままだった。
背筋に冷たいものが走った。
(今、か……?)
(もう、動き出しているのか……?)
発覚は、もっと先だったはずだ。
だが、発覚が先ということは、その火種はすでにどこかで燻り始めている可能性もある——。
「佐伯君?」
高村の声で、忠夫ははっと顔を上げた。
「……どうした?」
「いえ、少し」
忠夫は視線を落とし、紙を揃え直した。
「ココム、という言葉が気になって」
小林が苦笑い混じりに肩をすくめた。
「悪い悪い。変な冗談だったな」
「いえ……」
忠夫は短く返したが、心はすでに目の前の資料から離れていた。
もし、その事件の火種がすでに東芝のどこかで燻っているのだとしたら――。
今、俺たちはCPUの稟議を通そうとしている。
しかも米国の通商圧力が強まりつつあるこの時期にだ。
そんな時に、東芝グループのどこかで輸出管理の綻びが見つかれば、計画そのものが政治の火に巻き込まれかねない。
忠夫は静かに席を立った。
「少し、資料室へ行ってきます」
高村が怪訝そうに眉を上げる。
「どうした?」
「確認したいことがありまして」
それだけ言うと、忠夫は開発室を出た。




