第九十六話:根回し
東芝本社ビル、役員応接室。
ソファに深く腰掛けた電子機器部門の山田常務が、疲れたように眉間を揉んだ。
「……またワシントンで、SIAが騒いでいるそうですね」
対面のソファで煙草に火をつけた斎藤が、静かに相槌を打つ。
「ええ。64Kと256Kのダンピング疑惑で、SIAが301条を持ち出す構えだと聞いています」
「まったく、政治で殴りかかってくるとは厄介な連中だ。通産省もピリピリしていますよ。だからこそ、一刻も早く1MビットDRAMの量産体制を確立しなければならない。いま事業部はそのライン再編に総力を挙げて取り組んでいるところです」
斎藤は黙って頷くと、鞄から分厚いファイルを取り出し、テーブルの上に置いた。
「同感です。……だからこそ、山田常務にこれを見てもらいたくてね」
山田は怪訝な顔でファイルを引き寄せた。
表紙には、『次世代RISCプロセッサ開発および試作ライン割り当てについて』と記されている。
山田は数ページをめくり、やがて静かに資料を閉じた。
「……斎藤常務。お言葉ですが、簡単には賛成できませんな」
「理由を聞かせてください」
「1Mへのシフトで現場は手一杯なのです。試作ラインを確保したいというお気持ちは分かるが、生産部門から見れば簡単な話ではない。だいたい、世界中のオフィスに溢れているのはインテルのCPUとMS-DOSだ。既存の膨大なソフトウェア資産を捨ててまで、わざわざ規格を変える客がどこにいるというのです」
山田は呆れたように小さく息を吐いた。
「実績のない規格に巨額の社内リソースを注ぎ込むなど、経営判断として受け入れられるものではない」
「その『ソフトウェアの壁』を越えるための構想はあります」
斎藤は静かに言った。
「ただ、今日はその議論をしに来たわけではありません」
山田の眉がわずかに動く。
「ほう?」
「山田常務には、製造面から見て成立するかどうかを判断していただきたい」
そう言って資料の一頁を開き、山田の前へ差し出した。
そこには緻密なチップのレイアウト図が描かれていた。
「論理設計は完了しています。レイアウト設計も三月には終わる。役員会で承認が得られれば、四月からマスク工程へ入れます。そしてその先の試作ラインを確保できれば、試作に入れます。決して机上の空論ではありません」
山田は図面に目を落とした。
長年、技術と事業の両方を見てきた山田には、それが単なる絵空事ではないことが分かった。
「……設計が進んでいることは分かりました」
顔を上げた山田の声色は、先ほどよりわずかに重かった。
「しかし、それだけでライン確保に賛成はできませんよ。我々も1M DRAMの立ち上げで相当逼迫している」
「今日、事業部としての正式賛同を求める気はありません」
斎藤は真っ直ぐに山田を見据えた。
「役員会で承認が得られた際には、試作ライン確保にご協力いただきたい」
部屋に沈黙が落ちた。
山田は腕を組み、斎藤をじっと見つめ返す。
「……なるほど。役員会で勝つ自信がおありのようだ」
「勝てるよう、準備はしているつもりです」
長い沈黙。
山田はゆっくりとソファへ背を預けた。
しばらくして、テーブルの上の資料を整える。
「……正式な稟議書を上げてください。内容を精査してから、こちらの答えを出します」
斎藤は山田を真っ直ぐに見据えた。
「ご協力いただけますか」
山田は小さく首を振った。
「まだ決めませんよ」
そしてわずかに苦笑する。
「しかし反対するとも言いません。……役員会での説明を楽しみにさせてもらいましょう」
完全な賛同ではなかった。
だが拒絶でもなかった。
斎藤は短く頷いた。
「ありがとうございます」
◇
部屋を出ると、斎藤は手帳を開いた。
根回しリストの『山田』の横に、短く書き込む。
――保留。
少なくとも門前払いではなかった。
斎藤は手帳を閉じた。
役員会まで残された時間は多くない。
廊下の窓から見える冬の夕暮れを一瞥すると、そのまま次の目的地へ向かって歩き出した。




