第九十五話:投資の理由
11月中旬。
開発室の会議机の上には、分厚い資料の束が並んでいた。
西村と関根がまとめたレイアウト進捗資料。
大門と小林がまとめた命令セット仕様書。
今川によるTRON構想との関係資料。
そして忠夫と高村が仕上げた競合比較表と性能予測資料。
各々が研ぎ澄ませた資料が、ここに集結していた。
斎藤は腕を組み、無言でページをめくっていく。紙をめくる音だけが、張りつめた部屋に響いていた。
やがて最後のページが閉じられた。
「……よくここまで揃えてくれた」
声は低いが、わずかに満足げだった。
「技術的な正しさは、これで十分に示せる。だが、役員会という重い扉を開けるには、まだ決定的に足りないものがある」
大門が身を乗り出した。
「足りないもの、ですか?」
斎藤は資料の山を指先で軽く叩いた。
「ああ、『なぜ今、東芝がこのCPUに巨額を投じるのか』だ。今期もDRAMは好調で、既存マイコン事業も安定している。このタイミングであえてリスクを取る理由を、数字と論理で示さねばならん」
沈黙が落ちた。
技術の優位性なら語れる。設計思想も説明できる。
しかしそれは「投資の動機」にはならない。
最初に口を開いたのは忠夫だった。
「……DRAMだけに頼り続けるのは危険です」
斎藤の視線が忠夫に向く。
「今は製造技術の優位性で大きく利益を出しています。しかし、その優位がいつまで続くかは分かりません。将来的に、海外勢による本格的な追随が始まれば、価格競争は避けられません」
斎藤は少し間を置いた。
「……根拠は」
「今年の秋、サムスンが64KDRAMの量産出荷を始めました。今はまだ品質で差がありますが、追いついてくるのは時間の問題です」
(……前の人生では、そうなった。そしてそれは致命的だった)
斎藤は黙って頷いた。
そして高村が静かに続けた。
「ですがCPUは違います。アーキテクチャという設計資産が長期に残ります。同じメモリを使っても、システム全体の価値を決めるのはCPUです。我々が自前で握らなければ……中核技術を他社に依存することになります」
今川が穏やかだが力強い声で引き取った。
「TRON構想も、まさに同じ危機感から生まれています。これからの時代は、汎用コンピュータが全てを処理する時代ではありません。家電、産業機器、事務端末、通信機器……それぞれに最適化されたコンピュータが、共通の基盤で連携する世界です」
今川はゆっくりと全員を見回した。
「海外の汎用CPUに依存し続ければ、東芝は——いや、日本は——その未来の主導権を失います。このCPUは、その未来を自分たちの手で築くための第一歩です」
重い静けさが部屋を包んだ。
斎藤は深く椅子にもたれ、目を細めた。やがて、口元に笑みが浮かんだ。
「……悪くない」
彼は手元のメモ帳を引き寄せ、太い字で書き始めた。
『なぜ今か』
その下に、勢いよく続ける。
・DRAM依存からの脱却
・情報機器市場における主導権の確保
・TRON対応CPUとしての先行投資
ペンを置き、斎藤は資料の山を見渡した。
「これで稟議書の骨子ができた。あとは私がまとめる。引き続き開発作業を続けてくれ」
全員が静かに頷いた。
忠夫は資料の表紙を見つめたまま、静かに息を吐いた。 指先がわずかに資料の角を押さえていた。




