第九十四話:それぞれの戦場
忠夫と高村が資料の骨子を固めていたころ。
西村と関根のほうでも、レイアウト進捗をまとめる資料作りが始まっていた。
西村が図面を指で追いながら、関根がノートに数字を書き込んでいく。
完了ブロック、八。
未完了、三。
進捗率七割。
レイアウト凍結予定、三月末。
マスク投入予定、四月上旬。
「根拠を添えるぞ。役員が見るのはこの日付だ。ここがずれれば、稟議ごと信用を失う」
関根は黙って頷き、数字を書き込み直した。
◇
大門と小林の机には、命令セットの仕様書と原稿用紙が並んでいた。
大門が仕様書を参照しながら書き込み、小林が原稿用紙を確認していく。
三十二命令。
固定長三十二ビット。
ロード・ストア型。
演算とシフトの統合。
「命令セットの特徴、これで伝わるか?」
小林が原稿を指で叩いた。
「……このままだと役員には伝わらない可能性が高いだろうな。……命令数を絞った分、デコード回路が単純になる——これを付け足せばどうだ?」
「なるほど、なら例外処理の説明はどうする?」
「割り込みからの復帰が高速である、とだけ書こう。正確な数字は技術資料に回せばいい」
大門は短く頷き、原稿用紙に向き直った。
◇
本社、常務室。
斎藤は机の上に書類を広げていた。
マスク費用の見積もり。試作ラインを止めた場合の機会損失。歩留まり予測。回収年数。既存マイコン製品との食い合い予測。
数字の一つ一つが、役員会で必ず突かれる刃だった。
(……性能がいい、では通らん)
斎藤は煙草を灰皿に押し付けた。
技術が正しいことなど、役員会では二次的な問題だ。重要なのは、なぜ今やるか。なぜ東芝でなければならないのか。なぜDRAMで稼いだ金を、得体の知れないCPUに注ぎ込むのか。
それを、技術者ではない人間に分かる言葉で説明しなければならない。
机の上の電話が鳴った。
経理部だった。
「……ええ。試作費用の概算です。……いや、それでは足りません。第二次試作も織り込んでおいてください」
短いやり取りの後、斎藤は受話器を置いた。
斎藤は手帳を開いた。
そこには、稟議までに根回しを終えなければならない人間の名が、十数人並んでいた。
◇
同じ夜、東京大学。
今川は机の前に座り、ノートを開いていた。
TRON構想との関係についての見解。
ペンを走らせる。
現在のコンピュータは、汎用性を追求した結果、どこにでも使えるが、どこにも最適化されていない機械になっている。家電に積まれたチップが、オフィスのコンピュータと同じ命令セットを処理する必要はない。
TRONが目指しているのは、その前提を変えることだった。
用途ごとに最適化されたコンピュータが、共通のアーキテクチャ思想の下で連携する。
炊飯器も、オフィス端末も、工場の制御装置も、同じ情報基盤の上で結び付く。
そして利用者は、日本語でも、英語でも、ドイツ語でも、自分の言葉でそれらを扱える。
(……よし)
今川はペンを置き、書いたものを読み返した。
◇
開発室の片隅。
忠夫は、68000と80286のデータシートを交互に見比べ、一つ一つの数字を比較表へ落とし込んでいった。
68000との比較、80286との比較、トランジスタ数、予測ダイ面積——。
競合より速い、それだけでは稟議は通らない。
68000と比べて何が優れているのか。
80286と比べてどこが違うのか。
その差を裏付ける根拠は何か。
忠夫はペンを握り直した。




