第九十二話:稟議の足音
1984年、11月。
窓の外を吹き抜ける木枯らしの冷たさが嘘のように、東芝の開発室は異様な熱気に満ちていた。
製図台の上には、マイラー紙が広げられていた。
「……ここの配線、まだ少し詰められるぞ。シフタ側に寄せて、もう少し詰めろ」
西村がルーペ越しに図面を睨みつけながら、掠れた声で指示を飛ばす。
「やってみます。ですが、これ以上寄せると今度はロード・ストア側の経路と干渉する恐れが……」
関根が消しゴムを握りしめながら、顔をしかめた。
忠夫は横から図面を覗き込み、静かに口を開く。
「それなら、そこは無理に詰めず、あえて迂回させましょう。配線長が少し伸びても、パイプラインのクリティカルパスには影響しない部分です」
「……なるほど。配線長が伸びても、ここなら遅延に影響しないか」
関根が頷き、再びシャープペンシルを走らせる。
その時だった。
開発室の扉が開き、斎藤が入ってきた。
「……レイアウト設計の進捗はどうだ?」
斎藤は製図台へ歩み寄り、広げられたマイラー紙を見下ろした。
高村は、図面へ視線を落とした。
「そうですね……大きな問題が出なければ、来年三月にはすべてのレイアウトを終えられるかと」
斎藤の眉がわずかに動いた。
「三月、か」
「ええ。そこから最終的なデザインルール・チェック(DRC)を回してエラーを潰す。検証を含めて、四月にはマスク工程へ入れる、という見込みです」
高村の言葉に、斎藤は腕を組み、図面へ視線を落としたまま黙り込んだ。
『マスク工程』に入るということは、フォトマスクを作成し、試作ラインの確保が必要だ。それに伴う費用は数千万円、試作ラインを止めて流せば軽く億を超える。
ここから先は、秘密裏にどうにかなる領域ではなかった。
「……そうか。あと五ヶ月か……なら、そろそろ必要だな」
斎藤が呟いた。
斎藤は製図台から顔を上げ、開発室の面々をゆっくりと見回した。
「みんな、少しいいか?」
高村が怪訝そうに首を傾げる。
「何かありましたか?」
斎藤は一瞬、言葉を選ぶように間を置いた。
「……稟議書の作成だ」
その一言で、室内の空気がピンと張り詰めた。
「工場のラインを押さえ、経理を説得し、役員会を通す。ここからはもう、水面下だけではどうにもならん」
「そして、役員会を動かすには、誰が見ても納得できる数字と根拠が必要だ。性能、コスト、開発状況――すべて揃えなければならん」
開発室の面々が静かに頷く。
最初に口を開いたのは高村だった。
「任せてください」
その言葉に、他の面々も次々と頷いた。
斎藤は小さく頷き返し、手帳を開きながら言った。
「頼もしいな。……では分担を決めるぞ。レイアウトの進捗は西村と関根。命令セット仕様の最終確認は大門と小林。性能予測と競合比較は高村と佐伯くん。マスク費用と試作スケジュールは俺がまとめる」
次々と名前を呼ばれ、開発室の面々が緊張した面持ちで頷いていく。
忠夫も静かに頷いた。
「分かりました」
「頼む」
斎藤は満足そうに頷いた。
「それと、今川先生にも話を通しておく。TRON構想との関係についての見解も添えたい」
そう言うと、斎藤は扉のノブに手をかけた。
「任せたぞ」
バタン、と重い扉が閉まった。
異端のCPU計画は、いよいよ水面下から表舞台へと歩み出そうとしていた。




