第九十一話:自分の道
夕食を終え、温かいお茶を飲んで一息ついていた居間で、忠夫は静かに口を開いた。
「父さん、母さん。話があるんだ」
新聞を広げようとしていた父が手を止め、顔を上げた。
「なんだ? 急に改まって」
台所で食器を片付けていた母も、居間へ戻ってくる。
忠夫は、二人を真っ直ぐに見据えた。
「……進路のことで、話したいことがあるんだ」
和雄は口元をわずかに緩めた。
「そうか。行きたい高校が決まったのか?」
忠夫は、ゆっくりと首を横に振った。
「……高校には行かない」
一瞬の静寂。
和雄の口元の緩みが、そのまま凍りついた。
和雄はしばらく息子の顔を見つめていたが、やがて困惑したように尋ねた。
「……高校に行かずどうする気だ?」
「今の研究を続けたいんだ。東芝との開発もある。高校へ通えば、どうしても時間は減るし、制約も増えるから」
「……時間と、制約だと?」
和雄の表情から困惑が消えた。
代わりに浮かんだのは怒りだった。
そして湯飲みを座卓に叩きつけるように置いた。中のお茶が激しく跳ねる。
「ふざけるな!」
和雄の怒鳴り声が、居間に響いた。
「お前が特許を取り、巨額の資産を作ったことは認める。だがな、ビジネスや研究なんていつどうなるか分からないんだぞ! すべてが紙切れになった時、お前を最後に守るのは『学歴』という社会の最低限の保証だ!」
「……だから代わりに大検を受けて、大学受験資格は得るつもりだよ」
忠夫は和雄の目から逸らさずに答えた。
「そういう問題じゃないのよ、忠夫!」
佳子が身を乗り出し、悲痛な声で訴えかけた。
「お金や資格のことなんてどうでもいいの。あなたはまだ十五歳なのよ。制服を着て、学校に通って、友達と笑い合う……そんな普通の青春を過ごしてほしいの。……なのに毎日、大人みたいな顔をして難しい図面ばかり見て……いつか忠夫がどこか遠くへ行っちゃいそうで、お母さん、怖いのよ」
佳子の目には、涙が滲んでいた。
忠夫は二人の顔を見た。
普通の青春、という言葉が胸の中で転がった。
高校へ行き、大学へ行く。それがどこへ続いていたかは、もう知っている。
忠夫は、静かに、だが確固たる声で言った。
「母さん。これが、僕の青春なんだ」
佳子が言葉を失った。
和雄はしばらく忠夫を睨み続けていた。
やがて低い声で言った。
「……本気なのか」
「本気だよ」
忠夫は迷わず答えた。
和雄の眉がぴくりと動く。
「高校生活は、人生に一度しかないものだ……それでもか?」
「それでもだよ」
忠夫は静かに答えた。
長い沈黙が居間を支配した。
和雄は、目の前に座る息子を食い入るように見つめていた。だが、その瞳に宿る決して揺るがない光に、やがてゆっくりと目を閉じた。
そして、体の中の空気をすべて吐き出すような、長く重いため息をついた。
「……勝手にしろ」
「あなた!」
佳子が弾かれたように声を上げるが、和雄はそれを手で制した。
そして、忠夫へ視線を真っ直ぐに向けた。
「だがな、忠夫。決めたからには全力でやれ。いいな」
忠夫は深く頷いた。
「わかった」
それを見た佳子は涙を拭い、震える声で言った。
「……体だけは大事にしなさい。忠夫」
「……ありがとう、父さん。母さん」
忠夫は畳に両手をつき、深く頭を下げた。




