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五十六歳の研究者、中学生から人生をやり直す  作者: 正宗


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第八十三話:春の手応え

明け方の開発室に、疲労した声が飛び交っていた。


GUI用の文字表示回路について議論が続く中、忠夫がふと口を開いた。


「最初の設定時に、使用言語を選択できるようにした方がいいと思います」


その一言で、空気が止まった。


「……簡単に言ってくれるな」


関根がマイラー紙から顔も上げずに言う。


赤と青の鉛筆で埋まった巨大な配線図の上を、定規が滑る。


キュッ、キュッ――。


「つまり、日本語も入れるということだよな?……ASCIIだけなら、まだ軽いし、フォント数はたかが知れてる。だが、漢字を本気で入れるとなると話は別だ」


「漢字ROMだけでメモリを食う。さらにさっき言ってたGUIまで重なれば処理が追いつかない」


製図台の向こうで、今川が顔を上げた。


「いや、いいアイデアだ」


一拍の間があった。


「……先生」


高村が静かに、しかし真っ直ぐに言った。


「言語が増えるたびにフォント処理も増える。VRAMアクセスも、漢字ROM参照も全部重くなる。論理検証がまた積み直しになりますよ」


「分かっている」


今川はそれだけ言い、マーカーを手に取った。


「だが、このOSを世界標準にするには必要だ」


誰も即座には答えられなかった。


小林が低く唸った。


「……世界標準か……ならこのCPUも世界で使われるということか」


「ああ」


「……面白い」


その言葉に反論する者はいなかった。


今川はホワイトボードに向き直り、線を引き始めた。


忠夫はその背中を見ていた。



一ヶ月後。


開発室の製図台には、赤と青の鉛筆の粉が積もっている。


関根の手が、ひたすら消しゴムを走らせている。小林はルーペを目に当てたまま微動だにしない。西村の充血した目が、タイミングチャートにへばりついている。


忠夫は端末から引き剥がしたばかりの連続用紙を手に取った。


ずっしりと重い。


ページをめくる手が、一瞬止まった。


エラー件数。先月の数字と比べる。


「……減っています」


高村が、掠れた声で答えた。


「ああ、VRレジスタ(タスク切り替え用レジスタ)の追加で一度振り出しに戻ったが、それも先週で片がついた。タイミングエラーは今朝の時点で、残り二件だ」


忠夫は用紙から目を上げた。


「どこです」


「ロード・ストアと演算器の間だ。連続してアクセスが重なった時だけ、一サイクル分の遅延が滲み出る」


西村がタイミングチャートの波形の一点を指で叩いた。


忠夫はその箇所を覗き込み、しばらく黙って数字の列を追った。


頭の中で、パイプラインを流れるデータの動きをシミュレートする。


「……物理的な配線の遅延じゃないですね」


「ああ」


「フォワーディング(データの追い越し)の条件が一つ、抜けています。演算結果を、レジスタに書き込む前に次の命令へ直接渡す経路です。ロード・ストアが絡んだ時だけ、条件判定から外れてデータが待機してしまっている。回路の配置ミスではなく、制御ロジックの記述ミスです」


高村がガタッと椅子を鳴らして身を乗り出した。


「……なるほど、そういうことか」


「はい。ネットリスト(論理的な接続情報)の修正だけで直ります」


関根が消しゴムを握ったまま、呆然と顔を上げた。


「ということは、マイラー紙の修正は必要ない……?」


「はい」


この一ヶ月、仕様変更のたびに何度もマイラー紙を描き直した。デジタイザで膨大な座標を手作業で打ち込む。それは正真正銘の地獄だった。


関根は天井を仰ぎ、全身の力が抜けたように、深く、長い息を吐き出した。



修正の結果が出たのは、翌朝だった。


高村が最後の一枚を引き抜き、エラー件数の欄に目を落とした。


数秒の沈黙。


「……ゼロだ」


誰も声を上げなかった。


関根が、手にしていた色鉛筆をゆっくりと製図台に置いた。


西村が目を閉じた。


大門が、短く息を吐いた。


小林が、ぼんやりと天井を見上げたまま動かない。


高村は用紙を折り畳み、静かに机の上に置いた。


「論理検証、完了だ」


それだけだった。


誰も立ち上がらなかった。誰も握手をしなかった。


ただ、徹夜明けの沈黙が、開発室をゆっくりと満たしていった。


忠夫は自分の手を見た。


震えてはいない。


だが、指先に鈍い疲労が残っている。


(……終わった)


論理検証の完了。


だが、5万のトランジスタを手作業で描くマイラー紙の作業は、まだ三分の二残っている。


春の足音とともに、彼らは次なる地獄へと足を踏み入れようとしていた。

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