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五十六歳の研究者、中学生から人生をやり直す  作者: 正宗


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第八十二話:新しい扉

深夜の開発室に、キュッ、キュッと小気味よい摩擦音が響く。


ホワイトボードの大きな四角形ウィンドウの中に描き足した『独自の線』――それは、さらに小さな複数の四角形だった。


「……今川先生、それは? ファイルのアイコンですか?」

関根が目を細めて尋ねる。


今川はマーカーの先で、小さな四角形をトントンと叩いた。

「これは『リンク』だ」


「リンク……?」


「ああ、アップルのGUIの場合は、デスクトップにファイルがあって、開くとウィンドウが出る。フォルダで整理できて、見た目にもわかりやすい。だが、別のフォルダのファイルを見たければ、そこまで辿っていくしかない」


「我々のOSでは、文書の中に別の文書へのリンクを直接埋め込む」


今川は、仕様書に見立てた大きな四角の中の小さな四角から、矢印を引いて別の四角へ繋げた。


「たとえば仕様書を書いている時に、関連する回路図や会議録を参照したい。アップルなら一度ウィンドウを端に寄せて、フォルダを辿って探して開く。だが我々のOSでは、仕様書の中にあるリンクをクリックするだけで、その瞬間に飛べる」


「……フォルダを探す必要がない」

高村が呟いた。


「ええ、さらにその先の文書にも、また別のリンクがある。すべてのデータが網の目のように繋がっていく」


「データの本体を『実身』、そこへ飛ぶためのリンクを『仮身』と定義する。フォルダという階層構造は使わず、実身と仮身、この二つだけでシステム全体を構築する」


「これは、情報を無限にリンクさせていくための、全く新しい『実身・仮身モデル』だ。これなら、訴訟問題も回避できるはずだ」


静まり返る開発室の中で、忠夫は鳥肌が立つのを感じていた。


文章の中に別のデータへのリンクを埋め込み、次々と情報を辿っていくシステム。


それは後に、世界中の情報をリンクで結びつける巨大な情報網――“World Wide Web”へ繋がっていく発想そのものだった。


今川は、ネットワークが普及する前のこの1984年に、スタンドアローンのOS上でその未来の構造を完全に先取りしようとしている。


だが、その革新的な空気を切り裂くように、関根が呻くような声を漏らした。


「……いったい、どれだけの『処理能力』が必要になるんだ」


空気が一瞬、ピンと張り詰める。


「さっきの普及機でさえ、少し操作しただけで処理が追いつかずスワップ地獄に陥っていました。先生の言う『実身・仮身』は、文書から文書へ、いくつものファイルを同時に開いてリンクしていく前提ですよね?」


関根はホワイトボードの複雑な矢印を指差した。


「メモリの容量自体は今後安くなれば積めますが、問題はCPUの負荷です。膨大なリンクの管理に、タスクの切り替え、さらに重なるウィンドウの描画処理……。既存のチップじゃ、処理の重さに耐えきれず完全にフリーズしますよ」


関根の冷酷で論理的な指摘に、西村や高村もハッとした顔になる。

「確かに……」


「既存の汎用チップの速度じゃ、絶対に破綻する……」


だが、今川は焦るどころか、ニヤリと不敵に笑った。


「その通りだ、既存の石でやれば、間違いなくそうなる」


今川はホワイトボードを叩き、東芝の技術者たちをぐるりと見渡した。


「だから、このCPUなんだ」


「我々の……?」


ここで、忠夫が一歩前へ出た。


「……既存の汎用CPUでは、複数のタスクを同時に扱うための切り替え処理や、メモリの管理に時間がかかりすぎる。だから、OSの処理が追いつかずパンクするんです」


忠夫は、壁に貼られた巨大な論理回路図を見上げた。


「なら、この『実身・仮身』による大量のリンク処理と、重なり合うウィンドウの描画を、“ハードウェア側で直接サポート”できる専用の命令を持った石を作ればいい」


「……そういうことか!」


関根は目を見開いた。


大門が低い声で唸り、首の骨をポキリと鳴らした。


「単に計算が速いだけの汎用チップじゃない」


「OSの処理の重さを、CPUで直接肩代わりする。……だから、OSとCPUの完全な協調設計ってわけか」


「そういうことです」

忠夫が頷いた。


斎藤常務が腕を組み、笑みを浮かべて深く頷く。


「やるべきことが見えてきたな」


関根の顔から先ほどの懸念は消え去り、難題に挑む技術者としての鋭い光が宿っていた。


小林が無精髭を撫でながら、手元のマイラー紙を引き寄せる。


迫り来る巨人の足音を前に、ハードとソフトが一体となった全く新しい武器で、真っ向から迎え撃つ覚悟を決めていた。

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