第七十一話:同期
翌朝。
東芝の一室には、異様な空気が漂っていた。
壁一面に貼られたタイミングチャート。
机の上には、回路図とログ用紙の山。
徹夜明けの高村たち技術者が、血走った目で無言のまま資料を睨んでいる。
そして部屋の奥のパイプ椅子には、ネクタイを外し、ワイシャツの袖を捲り上げた斎藤常務の姿があった。
その重い空気を破るように、重厚な鉄扉が開いた。
「……失礼します」
忠夫の声とともに、一人の男が部屋に入ってきた。
部屋の視線が一斉に入口へ向く中、真っ先に動いたのは斎藤だった。
ゆっくりと立ち上がり、男の前に歩み出る。
「……東京大学の、今川先生ですね。東芝の斎藤です」
今川は徹夜明けの斎藤の姿と、背後の技術者たちの熱気を見回して、ふっと口角を上げた。
「……ご挨拶痛み入ります。……どうやら、本気のようですね」
「ええ。生半可な石を焼くつもりはありませんよ」
斎藤が応じると、今川は静かに笑い、そのまま机へ分厚い紙束を置いた。
ドン、と重い音が響く。
一番近くにいた西村が、思わずその紙束を手に取った。
ページをめくる手が、ピタリと止まる。
「……まさか、もうコンパイラの仕様まで起こしてきたのか?」
「いえ。私がTRONでずっと構想していた『理想の要求仕様』です」
今川は即答した。
「OSだけ作っても意味がありませんから。
この石は、コンパイラと一体で設計しなければ性能が出ない。命令配置、レジスタ割り当て、例外処理――全ては繋がっているんです」
高村が腕を組む。
「つまり、ハード側の都合で下手に命令を増やすな、と?」
「ええ」
今川は迷いなく頷いた。
「中途半端な互換性や親切心を残せば、必ず遅くなる。コンパイラが予測できないハードの動きは、システム全体にとって毒でしかありません」
一瞬、空気が張る。
だが、その緊張を破ったのは忠夫だった。
「だから、レジスタは16本に抑えてるんです」
全員の視線が、忠夫に集まる。
忠夫はホワイトボードへ歩き、チョークを取った。
「レジスタを増やせば、コンテキスト切り替えは重くなる。命令を増やせば、デコードは複雑化する。結果、クロックが落ちる」
カツ、カツ、と白線が走る。
「逆に、命令を極限まで単純化すれば、コンパイラ側で最適化できる余地が増える。TRONなら、タスクの優先度制御も完全に活かせる」
今川が静かに頷いた。
「リアルタイムOSは、“待ち”が致命傷なんです」
その一言で、室内の空気が変わった。
西村が手元の図面を睨みながら、ハッとしたように呟く。
「……つまり、何があってもパイプラインを止めるな、って話か」
「そうです」
忠夫は即答した。
「パイプラインが止まれば、このCPUの強みは活かせない。ハードを止めないために、ソフト側が先回りして命令を並べる必要があるんです」
沈黙。
だが、その沈黙は昨日までの“行き詰まり”ではなかった。
やがて、小林が低く笑った。
「面白ぇじゃねえか……。普通は、ハードの仕様が決まってからソフトが渋々合わせるもんだ。なのに今回は、最初から噛み合わせにいってやがる」
今川が静かに言った。
「ええ、最初から、同じものを見ているんです」
部屋が静まり返る。
徹夜明けの疲労も忘れ、技術者たちが図面と仕様書を睨み直す中。
斎藤の脳裏には、これまで見てきた無数の開発現場が過っていた。
ハードが先に形になり、後から載せたソフトが悲鳴を上げる。
そして問題が見つかるたびに、既に出来上がったハードへ無理やり修正をねじ込む。
そんな、妥協と後追いの調整を何度も見てきた。
だが、目の前の光景は違う。
「……日本で初めてかもしれんな」
その声には、確かな興奮と畏れが滲んでいた。
「CPU、OS、コンパイラを、最初から同期させて設計するなんて」
窓の外では、朝日がゆっくりと昇り始めていた。




