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五十六歳の研究者、中学生から人生をやり直す  作者: 正宗


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第七十話:合流

夜の東京大学。


廊下の灯りは落ち、研究室の一角だけが白く浮かんでいる。


今川は机に向かい、無数のメモに囲まれていた。


「リアルタイム性」

「優先度制御」

「割り込み応答」

書き殴られた言葉の間を、鉛筆の先が行き来する。


だが――


その動きは、途中で止まった。


「……足りない」

小さく、しかしはっきりとした声だった。


椅子にもたれ、天井を見上げる。


理論はある。思想もある。設計も描ける。


だが、それを動かす“現実”が追いついていない。


「どれだけ綺麗に組んでも……石が応えてこない」


既存のCPUでは、割り込みは遅く、コンテキストの切り替えは重い。


優先度はソフトでねじ込むしかなく、タイミングは常に揺れる。


「……結局、ハードに縛られる、か」

机の端に置かれた資料に目を落とす。


『TRONプロジェクト』


その時だった。


ジリリリリリ!


電話が鳴った。

静まり返った研究室に、不釣り合いなほどはっきりと。

今川はゆっくりと受話器を取る。


「……はい、今川です」


『夜分に失礼します。……佐伯です』


受話器の向こうからの落ち着いた少年の声に、今川は少し驚いたように眉を上げた。


「佐伯くんか。どうした、こんな時間に」


『先生。……今、TRONの設計で壁にぶつかっていませんか』


図星を突かれた今川は、手元の無数のメモを見つめ、思わず苦笑を漏らした。


「……相変わらず、君には見透かされているな。その通りだ。OSのロジックは組める。だが、既存の鈍重なCPUでは、私がTRONに求めるリアルタイム性にハードがついてこれない。……汎用性を引きずる石では、限界があるんだ」


『ええ。……だから、作りませんか。TRONのためだけの、最速の石を』


今川の目が、スッと細まる。


「……ほう」


『東芝で今、極秘で“RISC”を組んでいます』


「RISC……命令セットを縮小する、あのアーキテクチャか」


『はい。命令を極限まで削ぎ落とし、速さだけを追い求めたCPUです』


忠夫は続ける。


『レジスタ数を削り込み、十六本に抑えた代償として、コンパイラとOSが性能を引き出さなければ、この石は本来の力を発揮できない』


今川は無言のまま耳を傾けていた。


『汎用OSでは、この石は回せません。……先生のTRONで、この石の本来の性能を引き出してくれませんか』


一拍。


『ハードとソフト、同時に開発して、世界最速のシステムを作るんです』


今川は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。


ファミコンの時とは違う。


あの時は、限られたハードウェアをソフトウェアで補い、無理やり性能を引き出した。


だが今回は違う。


最初からTRONを走らせるためだけに、ハード側が無駄を捨てて待っている。


それはソフトウェア技術者にとって、理想そのものだった。


「……面白い」


今川の瞳から、先ほどまでの停滞は完全に消えていた。


「命令を単純化し、ソフトウェア側で性能を引き出す――これほどTRONの思想を証明する舞台はない」


今川は静かに笑った。


受話器の向こうで、

忠夫が小さく息を吐く気配がした。


張り詰めていたものが、

わずかにほどけたような沈黙。


『……これでようやく揃います』


その声は静かだった。


だが、抑えきれない熱が滲んでいた。


『では、後日東芝の方へ――』


「いや、時間が惜しい」

今川は即座に言った。


「明日、最新のカーネル仕様とコンパイラ生成ルーチンをまとめてそっちへ行く」


『……はい。東芝で待っています』


電話が切れる。


ツー、という無機質な音だけが残った。



「ハードが追いつかないなら、追いつくハードを、自分たちで定義する、か……」


研究室の白い灯りは、その夜、最後まで消えることはなかった。

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