第七十話:合流
夜の東京大学。
廊下の灯りは落ち、研究室の一角だけが白く浮かんでいる。
今川は机に向かい、無数のメモに囲まれていた。
「リアルタイム性」
「優先度制御」
「割り込み応答」
書き殴られた言葉の間を、鉛筆の先が行き来する。
だが――
その動きは、途中で止まった。
「……足りない」
小さく、しかしはっきりとした声だった。
椅子にもたれ、天井を見上げる。
理論はある。思想もある。設計も描ける。
だが、それを動かす“現実”が追いついていない。
「どれだけ綺麗に組んでも……石が応えてこない」
既存のCPUでは、割り込みは遅く、コンテキストの切り替えは重い。
優先度はソフトでねじ込むしかなく、タイミングは常に揺れる。
「……結局、ハードに縛られる、か」
机の端に置かれた資料に目を落とす。
『TRONプロジェクト』
その時だった。
ジリリリリリ!
電話が鳴った。
静まり返った研究室に、不釣り合いなほどはっきりと。
今川はゆっくりと受話器を取る。
「……はい、今川です」
『夜分に失礼します。……佐伯です』
受話器の向こうからの落ち着いた少年の声に、今川は少し驚いたように眉を上げた。
「佐伯くんか。どうした、こんな時間に」
『先生。……今、TRONの設計で壁にぶつかっていませんか』
図星を突かれた今川は、手元の無数のメモを見つめ、思わず苦笑を漏らした。
「……相変わらず、君には見透かされているな。その通りだ。OSのロジックは組める。だが、既存の鈍重なCPUでは、私がTRONに求めるリアルタイム性にハードがついてこれない。……汎用性を引きずる石では、限界があるんだ」
『ええ。……だから、作りませんか。TRONのためだけの、最速の石を』
今川の目が、スッと細まる。
「……ほう」
『東芝で今、極秘で“RISC”を組んでいます』
「RISC……命令セットを縮小する、あのアーキテクチャか」
『はい。命令を極限まで削ぎ落とし、速さだけを追い求めたCPUです』
忠夫は続ける。
『レジスタ数を削り込み、十六本に抑えた代償として、コンパイラとOSが性能を引き出さなければ、この石は本来の力を発揮できない』
今川は無言のまま耳を傾けていた。
『汎用OSでは、この石は回せません。……先生のTRONで、この石の本来の性能を引き出してくれませんか』
一拍。
『ハードとソフト、同時に開発して、世界最速のシステムを作るんです』
今川は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
ファミコンの時とは違う。
あの時は、限られたハードウェアをソフトウェアで補い、無理やり性能を引き出した。
だが今回は違う。
最初からTRONを走らせるためだけに、ハード側が無駄を捨てて待っている。
それはソフトウェア技術者にとって、理想そのものだった。
「……面白い」
今川の瞳から、先ほどまでの停滞は完全に消えていた。
「命令を単純化し、ソフトウェア側で性能を引き出す――これほどTRONの思想を証明する舞台はない」
今川は静かに笑った。
受話器の向こうで、
忠夫が小さく息を吐く気配がした。
張り詰めていたものが、
わずかにほどけたような沈黙。
『……これでようやく揃います』
その声は静かだった。
だが、抑えきれない熱が滲んでいた。
『では、後日東芝の方へ――』
「いや、時間が惜しい」
今川は即座に言った。
「明日、最新のカーネル仕様とコンパイラ生成ルーチンをまとめてそっちへ行く」
『……はい。東芝で待っています』
電話が切れる。
ツー、という無機質な音だけが残った。
「ハードが追いつかないなら、追いつくハードを、自分たちで定義する、か……」
研究室の白い灯りは、その夜、最後まで消えることはなかった。




