第六十九話:並行開発
設計の骨格が固まった会議室に、しばしの静寂が訪れた。
だが、図面を眺める関根の顔に、安堵の色はなかった。
関根が、乾いた喉を鳴らしながら呟いた。
「待って下さい……これ、コンパイラが対応できるんですか?」
全員の顔色が変わった。
西村が眉をひそめ、ホワイトボードを凝視する。
「……確かに、即値の幅は狭く、シフト機能も最小限。おまけにレジスタはたったの十六本……。人間がアセンブラで書くならともかく、機械に最適な命令の並びを吐き出させるのは、至難の業だ」
関根が続ける。
「ハードの回る速度を上げても、コンパイラが下手なコードを吐いたら、パイプラインはスカスカになりますよ。依存関係を解けなければ、待ちばかりになります」
小林が腕を組む。
「そうなった瞬間、この設計は一気に鈍っちまうぞ」
大門が低く、重い言葉を落とす。
「……ハードだけ出来ても、魂がなければ動かん、か」
空気が重く沈み込む。
その時、忠夫が静かに、だが確信を持って付け加えた。
「それだけじゃありません。OSもです」
全員の視線が忠夫に集まる。
「OSだと? まだ石の形が決まったばかりだぞ」
と高村が驚きを隠さずに言う。
「十六本のレジスタをどう管理し、どうやって高速にタスクを切り替えるか。……OSの設計思想とハードの『特権モード』や『割り込み』の仕様を今セットで決めなければ、OSを載せた瞬間にこのチップの速さは死にます」
「コンパイラ、そしてOS……システムソフトウェアのすべてを、ハードと同時に設計するんです」
忠夫の言葉に、高村が低く笑った。
「……同時に、か」
一拍。
「後からじゃ間に合わない、というわけだな」
関根が息を呑み、西村が苦く笑う。
「逃げ場がないですね」
小林が肩をすくめた。
「最初からそういう設計だろ」
大門は腕を組んだまま、ホワイトボードを睨む。
そして、低く言った。
「……だが、OSの設計が出来るやつはいるのか?」
その一言で、再び現実が突きつけられた。
部屋が沈黙に包まれた。
その中を忠夫が静かに口を開いた。
「‥‥アテならあります。今川先生のTRONです」
「今川先生のOSなら、この十六本のレジスタを最大限に活かせる。このチップのポテンシャルを100%引き出せるのは、TRONしかありません。」
静寂。
その沈黙を破ったのは、斎藤だった。
「あのTRONか……。確かにこの設計には向いているかもしれん」
高村が驚いたように斎藤を見た。
「常務、ご存知なのですか?」
「ああ。確かうちの社内でも、いくつかの部門が標準化に向けて協力の打診を受けていたはずだ。……だが、彼らがやっているのは『お付き合い』だ。将来の会議に席を確保しておくための、いわば保険だよ」
斎藤は自嘲気味に鼻を鳴らした。
「現場にはまだ何も降りてきていないだろう。上の連中は、TRONを『いつか作る標準的な石』のためのOSだと思っている。だが、佐伯君。君が言っているのは、そんな悠長な話じゃないんだろう?」
「はい」
忠夫は頷き、一歩前へ出た。
「僕たちが今ここで作っているのは、既存の延長ではない設計です。既存のOSをただ載せるだけでは、この石の速さは引き出せません。今川先生の理想とする『超高速リアルタイム制御』。それが必要です」
静寂。
斎藤は数秒間、忠夫を無言で見つめていた。やがて、その口角がゆっくりと吊り上がった。
「いいだろう。それで行こう」
低い声が、空気を引き締める。
「さっきも言ったとおり、稟議は通さない、責任は全て俺が取る」
斎藤は不敵に笑い、全員を見渡した。
「その代わり――動くものを作れ。形になった瞬間、私がすべてを事後承認せてやる。」
高村が小さく息を吐き、全員を見渡した。
「……聞いたな」
誰もが力強く頷いた。もう後戻りはない。
「CPU班と並行して、コンパイラとOSの基本設計を立ち上げる。人は足りない、予算も非公式。……だから、全員兼任だ」
場に、乾いた、しかし闘志の宿った笑いが広がる。
設計は終わった。
窓の外では、夕焼けが静かに夜へと沈み始めていた。




