第七十二話:聖域の解体
今川が持ち込んだ「理想の要求仕様」を前に、
技術者たちは、これまでの“常識”を一つずつ解体し始めていた。
「今川先生……本当に、乗算器を削るんですか?」
関根が、回路図の中央を指しながら訊ねる。
当時のCPUにとって、乗算器や除算器を載せることで複雑な演算をハードウェアで直接処理させるのが常識だった。
「ええ」
今川は迷いなく頷いた。
「加算とシフトの組み合わせで十分です。コンパイラ側で最適化すればいい」
そして、机上のタイミング表へ視線を落とす。
「むしろ問題なのは、複雑な命令を増やすことで制御が重くなることです」
静かな声だった。
だが、その言葉は、従来のCPU設計思想そのものを否定していた。
「この石に必要なのは、“器用さ”じゃない」
今川は続ける。
「止まることなく、一サイクルで走り続けられる単純さです」
高村が腕を組んだまま、低く息を吐く。
「……ハードウェアで全部解決しようとしない、か」
「ええ」
今川は頷いた。
「ソフトウェアが制御しやすい最小単位だけを、ハード側が高速に提供する。その方が、結果的に全体は速くなる」
西村は難しい顔で図面を睨んでいた。
長年、ハードウェア技術者として、
“高性能とは複雑さだ”
と信じてきた。
だが今、目の前では、
その価値観そのものが覆されようとしていた。
その議論から少し離れた場所で、
忠夫は別の図面を見つめていた。
西村が担当している、バレルシフタ周辺のレイアウト図。
忠夫は図面へ指を置く。
「西村さん。ここ、配線を少し迂回できませんか」
「……迂回?」
西村が眉をひそめる。
「それをやると、配線遅延が増えるぞ」
「局所的には、です」
忠夫は即座に返した。
「でも、その代わり演算器との距離が縮まる。シフトと演算を連続実行した時、全体の配線長は短くできるんです」
西村の表情が変わった。
忠夫が見ているのは、論理回路だけではない。
実際にシリコンへ焼かれた後の、信号の伝播距離まで見据えていた。
「……待て」
西村は図面を引き寄せた。
数秒、無言で線を追う。
「……確かに」
西村が小さく呟く。
忠夫は図面から目を離さない。
「クロックを上げるなら、論理だけじゃ足りません。最後は、配線の長さになります」
◇
夕方。
斎藤が、缶コーヒーを片手に忠夫へ歩み寄った。
徹夜続きの現場を回ってきたのだろう。
ワイシャツには、うっすらと皺が刻まれている。
「佐伯君」
斎藤は缶コーヒーを差し出した。
そして、白熱する高村たちの議論へ視線をやり、小さく息を吐く。
「……凄まじい熱気だな」
忠夫が黙って頷くと、斎藤はわずかに声を落とした。
「だが問題は……この石、うちの主力とぶつかることになる」
その瞬間。
室内の空気がわずかに張った。
東芝には既に、他社アーキテクチャをベースにした主力CPU事業が存在する。
もし、この異端のRISCが成功すれば――
既存の主力事業と正面から衝突し、社内の勢力図そのものを揺るがしかねない挑戦だった。
忠夫は缶コーヒーを受け取りながら、
静かに問い返す。
「……反発されますか」
斎藤は苦笑した。
「ああ。社内には、“命令を減らして速くなるはずがない”と思っている人間が多い。長年それでやってきたからな」
斎藤は缶コーヒーを一口飲んだ。
「……正直に言うと、私も最初はそう思っていた」
忠夫は黙って聞いた。
「長くやってきた人間ほど、自分の積み上げてきたものを疑えない。私もそうだった」
視線の先では、高村たちが新しい命令表を囲み、今も議論を続けている。
斎藤はしばらくその光景を眺めていた。
「だが……目の前の彼らはもう分かっている」
低い声だった。
「これは、“今までの延長”じゃない、と」




