第六十四話:動き出す歯車
東芝本社ビルの前で、忠夫は一度だけ空を見上げた。
夏の暑さはまだ残っていた。
だが、風にはわずかに秋の気配が混じっていた。
正面玄関を抜けると、受付の女性が顔を上げた。
「佐伯技術研究所の佐伯です。斎藤常務とのお約束で参りました」
「佐伯様ですね。斎藤常務より伺っております」
「ありがとうございます」
案内された会議室の扉が開く。
中にはすでに斎藤、高村、そして数名の技術者が揃っていた。
机の上には論文のコピー、英文資料、手書きのメモが山のように積まれている。
斎藤が口元を緩めた。
「来たか、佐伯君」
「おはようございます」
高村が腕を組んだまま言う。
「昨夜、常務から聞いたよ。朝から厄介な案件だとね」
会議室に小さな笑いが起きた。
斎藤が軽く手を打った。
「よし。始めるぞ」
その一言で、空気が締まる。
斎藤は机上の論文を持ち上げた。
「我々なりに読んだ。命令を単純化し、構造を軽くし、高速動作を狙う思想。筋は通っている」
一枚、資料を置く。
「だが問題は、その先だ」
高村が引き取る。
「ええ、理屈は分かる。だがCPUは理屈だけではできない。命令数を減らせば使いにくくなる。ソフト負担も増える。何を削り、何を残すか。その線引きが一番難しい」
忠夫は頷いた。
「その通りです」
高村がじっと見る。
「……で、君はどう考えている?」
会議室の視線が集まった。
忠夫は数秒だけ資料へ視線を落とした。
彼らが本気でここまで読み込んできたことを確かめ、静かに立ち上がる。
ホワイトボードの前に立ち、マーカーを取る。
まず、大きく書いた。
『CISC』
その下に、簡単な流れを書く。
MEM → ALU → MEM
「今のCPUは、一つの命令にやることを詰め込みすぎています」
技術者の一人が頷く。
「メモリから取って、計算して、また戻す……ですね」
「ええ」
忠夫は小さく頷いた。
「そのせいで、命令ごとに終わるまでの『時間』がバラバラになる」
ホワイトボードに、長さの違う棒グラフのような線を二本引く。
3 clocks / 15 clocks
「3サイクルで終わる命令もあれば、15サイクルかかる命令もある。今のCPUは、この『一番長い命令』が通り過ぎるのを待ってから、次のサイクルを刻まなければなりません」
忠夫は一度、その図を見た。
そして――
迷いなく、線を引いた。
複雑な流れの一部を消す。
「だから、分解します」
その横に書く。
『RISC』
さらに続ける。
LOAD
ALU
STORE
「一つの命令に詰め込まれていた処理を、すべて分ける」
若い技術者の一人が眉をひそめた。
「……すべてを1クロックで終わる形に揃える、ということですか?」
「そうです。理想的にはすべてを1クロックで終わる形に揃えます。そうすれば足並みが揃い、命令を途切れさせずに流し続けられる」
忠夫はさらに続けた。
「それと、もう一つ」
命令列を指でなぞる。
「今の命令は長さがバラバラです。CPUはまず“どこまでが一命令か”を考えなければならない」
「……デコード負荷か」
誰かが呟く。
「ええ」
忠夫は頷く。
「これも無駄です」
マーカーで横線を引く。
「命令長は固定にします。読んだ瞬間に実行できる形にする」
ざわめきが広がる。
若い技術者が思わず口にする。
「……そこまで削るんですか」
「ええ」
忠夫は振り返った。
「複雑さは性能を食います。まず速い骨格を作るべきです」
斎藤が腕を組む。
「しかしソフト側の負担は増えるぞ」
「ええ。だからこそ――」
忠夫は一歩踏み出した。
「コンパイラとOSで吸収する設計です」
視線が集まる。
「CPUを無理に賢くする必要はありません」
ゆっくりと言った。
「シンプルにして、その分をソフト側で最適化する」
一拍。
「その方が結果として、速くて安定したシステムになります」
高村が小さく息を吐いた。
「……発想が逆だな」
「ええ」
忠夫は頷く。
「ハードで解決するのではなく、システム全体で解決する」
静寂。
やがて――
斎藤が口を開いた。
「……決めた」
全員が顔を上げた。
「正式案件にはまだしない。だが極秘で試作チームを作る」
高村が即座に問う。
「人数は」
「五人だ」
「少ないですね」
「正式なプロジェクトになれば、本社の会議や稟議で一年は潰れる。だから『非公式』でいく」
その答えに、誰も反論しなかった。
斎藤は続ける。
「高村、お前のところから二人。私の方で設計部門から二人借りる」
会議室がわずかにざわつく。
「CPU屋を呼ぶんですか?」
若手の一人が思わず口にした。
「呼ぶ」
斎藤は短く答える。
「既存マイコンの経験者だ。命令セットと制御回路の勘所は必要になる」
高村が鼻を鳴らす。
「メモリ屋とCPU屋の混成部隊ですか。揉めそうですね」
「揉めて結構だ。議論しない組織は腐る」
斎藤の一言で、再び静まり返った。
そして、忠夫を見る。
「佐伯君。君にも入ってもらいたい」
忠夫はわずかに眉を上げた。
「……斎藤常務。私は学生です。動ける時間にも限りがあります」
斎藤は即答した。
「構わん。毎日来いとは言わん」
一歩、前へ出る。
「君には手を動かしてほしいんじゃない。方向を示してほしい」
会議室が静まり返る。
高村が肩をすくめた。
「ええ、現場仕事までされたら、こっちの立場がありませんよ」
笑いが起きた。
忠夫は静かに頭を下げる。
「できる限り、力になります」
斎藤が頷く。
「よし。高村、お前が取りまとめろ」
「了解です」
「今日から始める。論文の追読、命令セットの定義、試作環境の検討。外には漏らすな」
短い返事が重なる。
窓の外では、夏雲がゆっくり流れている。
まだ名もない小さな計画。
だがその中心で、確かに歯車は回り始めていた。




