表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
五十六歳の研究者、中学生から人生をやり直す  作者: 正宗


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

64/70

第六十四話:動き出す歯車

東芝本社ビルの前で、忠夫は一度だけ空を見上げた。


夏の暑さはまだ残っていた。

だが、風にはわずかに秋の気配が混じっていた。

正面玄関を抜けると、受付の女性が顔を上げた。


「佐伯技術研究所の佐伯です。斎藤常務とのお約束で参りました」


「佐伯様ですね。斎藤常務より伺っております」


「ありがとうございます」


案内された会議室の扉が開く。


中にはすでに斎藤、高村、そして数名の技術者が揃っていた。

机の上には論文のコピー、英文資料、手書きのメモが山のように積まれている。


斎藤が口元を緩めた。


「来たか、佐伯君」


「おはようございます」


高村が腕を組んだまま言う。


「昨夜、常務から聞いたよ。朝から厄介な案件だとね」


会議室に小さな笑いが起きた。


斎藤が軽く手を打った。


「よし。始めるぞ」


その一言で、空気が締まる。


斎藤は机上の論文を持ち上げた。


「我々なりに読んだ。命令を単純化し、構造を軽くし、高速動作を狙う思想。筋は通っている」


一枚、資料を置く。


「だが問題は、その先だ」


高村が引き取る。


「ええ、理屈は分かる。だがCPUは理屈だけではできない。命令数を減らせば使いにくくなる。ソフト負担も増える。何を削り、何を残すか。その線引きが一番難しい」


忠夫は頷いた。


「その通りです」


高村がじっと見る。


「……で、君はどう考えている?」


会議室の視線が集まった。


忠夫は数秒だけ資料へ視線を落とした。

彼らが本気でここまで読み込んできたことを確かめ、静かに立ち上がる。


ホワイトボードの前に立ち、マーカーを取る。


まず、大きく書いた。


『CISC』


その下に、簡単な流れを書く。


MEM → ALU → MEM


「今のCPUは、一つの命令にやることを詰め込みすぎています」


技術者の一人が頷く。


「メモリから取って、計算して、また戻す……ですね」


「ええ」


忠夫は小さく頷いた。


「そのせいで、命令ごとに終わるまでの『時間』がバラバラになる」


ホワイトボードに、長さの違う棒グラフのような線を二本引く。


3 clocks / 15 clocks


「3サイクルで終わる命令もあれば、15サイクルかかる命令もある。今のCPUは、この『一番長い命令』が通り過ぎるのを待ってから、次のサイクルを刻まなければなりません」


忠夫は一度、その図を見た。


そして――


迷いなく、線を引いた。


複雑な流れの一部を消す。


「だから、分解します」


その横に書く。


『RISC』


さらに続ける。


LOAD

ALU

STORE


「一つの命令に詰め込まれていた処理を、すべて分ける」


若い技術者の一人が眉をひそめた。


「……すべてを1クロックで終わる形に揃える、ということですか?」


「そうです。理想的にはすべてを1クロックで終わる形に揃えます。そうすれば足並みが揃い、命令を途切れさせずに流し続けられる」


忠夫はさらに続けた。


「それと、もう一つ」


命令列を指でなぞる。


「今の命令は長さがバラバラです。CPUはまず“どこまでが一命令か”を考えなければならない」


「……デコード負荷か」


誰かが呟く。


「ええ」


忠夫は頷く。


「これも無駄です」


マーカーで横線を引く。


「命令長は固定にします。読んだ瞬間に実行できる形にする」


ざわめきが広がる。


若い技術者が思わず口にする。


「……そこまで削るんですか」


「ええ」


忠夫は振り返った。


「複雑さは性能を食います。まず速い骨格を作るべきです」


斎藤が腕を組む。


「しかしソフト側の負担は増えるぞ」


「ええ。だからこそ――」


忠夫は一歩踏み出した。


「コンパイラとOSで吸収する設計です」


視線が集まる。


「CPUを無理に賢くする必要はありません」


ゆっくりと言った。


「シンプルにして、その分をソフト側で最適化する」


一拍。


「その方が結果として、速くて安定したシステムになります」


高村が小さく息を吐いた。


「……発想が逆だな」


「ええ」


忠夫は頷く。


「ハードで解決するのではなく、システム全体で解決する」


静寂。


やがて――


斎藤が口を開いた。



「……決めた」


全員が顔を上げた。


「正式案件にはまだしない。だが極秘で試作チームを作る」


高村が即座に問う。


「人数は」


「五人だ」


「少ないですね」


「正式なプロジェクトになれば、本社の会議や稟議で一年は潰れる。だから『非公式』でいく」

その答えに、誰も反論しなかった。


斎藤は続ける。


「高村、お前のところから二人。私の方で設計部門から二人借りる」


会議室がわずかにざわつく。


「CPU屋を呼ぶんですか?」


若手の一人が思わず口にした。


「呼ぶ」


斎藤は短く答える。


「既存マイコンの経験者だ。命令セットと制御回路の勘所は必要になる」


高村が鼻を鳴らす。


「メモリ屋とCPU屋の混成部隊ですか。揉めそうですね」


「揉めて結構だ。議論しない組織は腐る」


斎藤の一言で、再び静まり返った。


そして、忠夫を見る。


「佐伯君。君にも入ってもらいたい」


忠夫はわずかに眉を上げた。


「……斎藤常務。私は学生です。動ける時間にも限りがあります」


斎藤は即答した。


「構わん。毎日来いとは言わん」


一歩、前へ出る。


「君には手を動かしてほしいんじゃない。方向を示してほしい」


会議室が静まり返る。


高村が肩をすくめた。


「ええ、現場仕事までされたら、こっちの立場がありませんよ」


笑いが起きた。


忠夫は静かに頭を下げる。


「できる限り、力になります」


斎藤が頷く。


「よし。高村、お前が取りまとめろ」


「了解です」


「今日から始める。論文の追読、命令セットの定義、試作環境の検討。外には漏らすな」


短い返事が重なる。 


窓の外では、夏雲がゆっくり流れている。


まだ名もない小さな計画。


だがその中心で、確かに歯車は回り始めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ