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五十六歳の研究者、中学生から人生をやり直す  作者: 正宗


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第六十三話:理解の限界

1983年8月25日。


RISC CPUのアーキテクチャは、理解できた。


命令を単純化し、構造を整理し、制御を軽くするという思想。

その目的も、CISCとの違いも、なぜ性能に繋がるのかも。


頭の中では、すでに一本の線として繋がっていた。


だが――。


ノートの上で、忠夫のペンは止まっていた。


「……これを、一人で“形”にはできない」


設計という段階は、理解とは別物だった。


データパス。

制御回路。

タイミング。

レイアウト。

割り込み系統。

命令デコード。

配線長と遅延。


どれも論理だけでは終わらない。

現実の制約と、妥協と、積み上げの世界だった。


机の上に置かれたバークレーの論文が、やけに厚く見える。


忠夫はページを閉じ、静かに天井を見上げた。


「……一人で設計するのは現実的ではないな。数年はかかる」


苦笑が漏れた。


理解したからこそ、見えてしまった壁でもあった。


思想は読める。

未来も知っている。

だが、それだけではCPUは生まれない。


窓の外では、夏の終わりの風が網戸を揺らした。


蝉の声も、どこか遠い。


理解は進んだ。

だが同時に、別のこともはっきりしてしまった。


――ここから先は、自分一人では至れない。


前世で、成果を奪われ、誰にも救われなかった日々が、一瞬だけ脳裏をよぎった。

だが、それよりも今ははっきりと分かっていた。

一人では、未来には届かない。


忠夫は居間へ向かい、置かれた黒電話へ手を伸ばした。


ダイヤルを回す指先は、静かだった。


『はい、東京芝浦電気でございます』


「いつもお世話になっております。佐伯技術研究所の佐伯と申しますが、半導体事業部の斎藤常務、いらっしゃいますでしょうか」


『少々お待ちくださいませ』


保留音もない無音の時間が流れる。


やがて、聞き覚えのある低い声が受話器の向こうから届いた。


『……斎藤だ。佐伯君か。珍しいな、君から電話とは』


「お忙しいところ失礼します」


『いや、構わんよ。擬似SRAMの件なら、ようやく量産立ち上げの目処が見えてきたところだ。君には改めて礼を言わねばならん』


「それは何よりです」


忠夫は一拍置き、静かに続けた。


「本日は、別件でお電話しました」


受話器の向こうで、斎藤の気配がわずかに変わる。


『……ほう?』


「以前、お渡しいただいたRISC CPUの論文ですが」


『あれか、どうだった?』


「読み終えました。理解もしました」


短い沈黙。


そして斎藤が、少しだけ笑った。


『理解した、か。君ならそう言うと思ったよ』


「ですが――設計は別です」


忠夫は率直に言った。


「これは、一人でできる物量ではありません。思想を回路へ落とし込み、量産可能な形へまとめるには、設計チームと製造現場の力が必要です」


今度こそ、受話器の向こうが静まり返った。


数秒後、斎藤の低い声が返る。


『……続きを聞こう』


「東芝に、いや斎藤常務にその気はありますか」


長い沈黙が落ちた。


電話線の向こうで、誰かが書類を置く音がした。


やがて斎藤が、静かに息を吐く。


『……佐伯君』


その声には、驚きと慎重さ、そして抑えきれぬ熱が混じっていた。


『君は、とんでもない球を投げてくるな』


忠夫は何も言わず、返答を待った。


『一応な。私としても、少人数だが調査チームは作ってはいた』


忠夫の目がわずかに細まる。


「やはり」


『だが、論文を読んで概念を追っている段階だ。実装となれば話は別だ。人も足りん。時間も足りん。社内を説得する材料もない』


忠夫は即答した。


「材料ならあります。未来です」


斎藤が小さく笑った。


『君らしい答えだ』


しばし沈黙。


斎藤が、ゆっくりと答えた。


『……面白い』


その一言で、空気が変わった。


『明日、うちへ来てくれ。高村も呼ぶ。』


忠夫は受話器を握り直した。


「ありがとうございます」


『礼は早い。これはまだ、社内では遊びだ』


斎藤の声が少しだけ笑う。


『だがな、遊びから本物が生まれることもある』


電話が切れる。


忠夫はしばらく受話器を置かず、黒い受話器の冷たさを手の中で感じていた。


机の上には、バークレーの論文。

窓の外には、終わりかけた夏。


そしてその向こうに、まだ誰も知らない次の時代があった。

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