第五十七話:発売前の足音
「ただいま」
玄関のドアが開く音と共に、父・和雄の疲れた声が響いた。
「お帰りなさい、あなた。今日は早かったのね」
台所から母・佳子が顔を出す。
「おかえり、父さん」
忠夫も居間から声を掛けた。
鞄を置いて上がってきた和雄は、ネクタイを緩めながら肩を回した。
背広には一日の疲れが染みついている。
「月半ばの締め処理が思ったより早く片付いてな。少し早く帰れたよ」
そう言って座卓の前に腰を下ろす。
佳子が湯呑みを差し出した。
「お疲れさま。すぐご飯にするわ」
和雄は湯気の立つ茶を一口すすり、ようやく人心地ついたように息を吐いた。
忠夫はその様子を見ながら、静かに口を開く。
「父さん、母さん。夕食の後に、見せたいものがあるんだ」
和雄が眉を上げる。
「見せたいもの?なんだ急に‥」
佳子が少し気圧されるように訊いた。
「なに? また何か作ったの?」
忠夫は首を横に振った。
「……作ったんじゃないよ。届いたんだ」
その言葉に、和雄と佳子は顔を見合わせた。
◇
夕食を終えた後。
食器を片づける音が台所から聞こえる中、忠夫は両腕で大切そうに“それ”を抱えて居間へ戻ってきた。
赤と白の筐体。
角ばった、小ぶりな機械。
まだ塗装の甘さが残る、どこか試作品めいた外観。
座卓の前に置かれたそれを見て、和雄が目を丸くした。
「……なんだ、これは」
忠夫は、静かにその名を告げた。
「ファミコン。任天堂の新しいゲーム機だよ」
居間の空気が、わずかに変わった。
忠夫は本体をテレビへ接続し、電源を入れた。
ブラウン管が青白く光り、電子音が居間に響く。
やがて画面に積み木のようなブロックと、題名が映し出された。
『TETRIS』
和雄の表情が、ぴたりと止まる。
「……これは」
画面を見つめる目に、驚きと懐かしさが混じった。
「まさか……テトリスじゃないか」
佳子も「あっ」と声を上げる。
思い出すのは夜なべしてテープをダビングし、一通ずつ宛名を書き、カセットを包み、家族総出で発送したあの夜々。耳にこびりついた高周波音と、机いっぱいに積まれた現金書留の封筒。
和雄の口元が、自然と綻んだ。
それは技術への感銘以上に、自分たちが泥臭く関わったものが「未来」として結実したことへの、純粋な喜びだった。
和雄は目を細め懐かしそうに画面を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「……あの時は、ただ必死だったが。今思うと楽しかった」
少し照れくさそうに、けれど誇らしげに和雄は続ける。
「自分たちが手伝ったものが、こうして新しい形になって残るというのは……悪くない。いや、いいもんだな」
佳子が優しく笑った。
「あなた、あの時ずいぶん張り切ってたものね」
「……」
和雄は咳払いして顔を背けたが、その口元は隠しきれずに緩んでいた。
忠夫はコントローラーを差し出す。
「父さん、母さん。やってみる?」
和雄はそれを受け取り、眼鏡を押し上げた。
「……よし。やってみるか」
世間がまだ「ファミコン」という名の怪物に気づく前。
佐伯家の居間だけが、一足先に新しい時代の熱狂に包まれていた。
◇
そして季節は流れた。
梅雨が明け、蝉の声が街に満ちる。
今日、全国の玩具店に、ファミコンが並ぶ。




